反デカルトに辿り着く


自己

認識

デカルトに端を発した「我」あるなし論争は、ヘーゲルの他者による精神発展論(1)、キルケゴールのシーソー論(2)、ラカンの鏡像段階理論(3)など多くの哲学者の主題の一つであり続けた。また、「認識」については、カントを乗り越えたフッサールの対象確信論(4)が現象学の扉を開いた。

○ヘーゲルの他者による精神発展論

人間精神は、発展(そのものが目に見えない潜在状態から、目に見える顕在状態へと変化すること。例えば、潜在状態の胚珠から芽が出て花が咲くこと。通常、顕在化することで別個体になる)、つまり顕在化(他者化)して潜在状態(自己)ではなくなるものの、しかし、それでも両者が同一の存在(同一個体)であり続けることによって、つまり他者がいることに気がつく(自覚する)ことができることで、自己が自己という存在であることを知ることができ、なおかつ、自己を失わずに済むという理論。(1)別名、「無限性」。自己が様々な形で他者と関わり、影響されつつも「無限」に自己へと戻ってくることができる意味。(5)

○ラカンの鏡像段階理論

幼児期の子供はそれまで自らの身体を統一体だとは思っておらず、 鏡を見て初めてそれを認識するというもの。ここから、人間は鏡に映った自らの像に自らを「同一化」することで自らを認識、つまり自己を確立しているということができる。なお、このとき、鏡に映った自らという、自らとは別の物を通して自らの身体を認識(自己を確立)した時点で、 「オリジナルな自ら」は消滅してしまう。(3)つまり、「我思う、故に我なし」であり、この点でヘーゲルとは一線を画す。

○キルケゴールのシーソー論

自己を固有な魂や精神ではなく、aとbからなる関係(シーソー)、それも「関係項の相互関係の仕方のそれ自身に対する関係の仕方に応じて関係そのものにいろいろな不均衡な状態が生じうるような、動的なはたらきとしての関係」(2)と捉えるもの。例として、自由と必然という関係項からなる関係があるとき、絶望する自己は、自由すぎて選べない絶望と、必然(自由のない)からくる絶望をシーソーのように揺れ動き、それそのものを「自己」と捉えた。

「自己」を関係項という、他者とまではいかないまでも外部存在を前提として存在しうると捉えた点で、他の理論と同様に反デカルト的と言える。

○フッサールの対象確信論

主観-客観からなる従来の認識論をとっぱらい、認識を、客観には一致せず、対象確信に一致するものと考える理論。つまり、その赤い物体がリンゴに客観的に的中していることは証明できないが、代わりに赤いリンゴがあるという確信を作りあげることはできるというもの。(6)個々人の確信が、共有されて世界確信=客観になる。(7)

そして、プラグマティズムもまた、概ねこれらの問題を主題としたものであることがこのほど明らかになった。

パース曰く、先入観が払拭できない以上、普遍的懐疑は不可能である。(8)そして、人間の認識とは、人々による記号による学び合い(議論)の過程に参加することである。(8)認識なるものの概念の根底が覆ったとき、「真理」をどう位置付けるかという問題が浮かび上がる。

パースはこれを無限の探求の末の収束点と位置付けた。(9)

ジェームズは、ある結果をみて別の結果を経験せずとも統括できる時のそのためのツールと評した。(10)「行為」を前面に押し出す、プラグマティズムの真髄である。

デューイは、探求の元になる記号が、特定の言語や文化を前提としたものである以上、真に普遍ではないとして、「真理」は保証つきの言明可能性に過ぎないとした。(11)

これはラカンの「言語世界」(3)に通ずる。

クワインは、真理か否かではなく、「信念」のネットワークシステムの訂正の歩みが「真理」的なもののあり方であるとした。(12)フッサール的転回である。

ローティは、特定の言語や文化を「連帯」と称し、客観性は「連帯」の別名でしかないと言い切った。(13)

○ラカンの言語世界

鏡像段階理論は一つの例えでしかなく、人間が何かを思考する時、その何かを考える材料は全て前提となる言語、知識、他者の考えの元に成り立っているのであるから、思考するということは「言語世界」に身を委ねることと同義であり、そこを通してでしか自らは存在し得ないというもの。(3)(14)

無論、上記に述べたプラグマティズム読解は、入門書をさらにまとめた暴論に近いものである。とはいえ、概略を掴むことができたという意味で、本書はその役割を果たしたと言えよう。

さて、初めて哲学書に触れてから3年、ようやっと哲学の道が眼前に開かれた。つまり、スタート地点に立ったということである。そしてそれは、競技に挑む準備が整ったことを意味している。

一つだけ確かなこととして、ここに至るまでの道のりは険しく、困難で極めてハードルの高いものであった。そして、もしかしたら私は3年をかけて哲学の良好な入門書1冊分の知識しか身につけていないのかもしれない。

にも関わらず、これは自明のことだが、この回り道こそが最良であった可能性が極めて高いことについては、サッカー漫画「アオアシ」が素晴らしい例示となる。

簡単に言えば、本作は主人公青井葦人が、元々は生粋のフォワードだったものの、Jユースにおける東京最強チームでプレイしていくにあたり、監督から突如ディフェンダーへの転向を命じられ、苦悩するも、そこで自身の類稀なフィールドを「鷹」の視点から俯瞰する能力を活かしながらあるべきサイドバックへと進化していくという物語である。サイドバックという攻守両方に関わることのできるポジションにおいて、既に会得していた「守」における能力の活用を「攻」においても活用することを会得し、能力の完成が明らかになったのは物語も半ばに差し掛かった28巻のことである。その過程を見事に描き切った作者:小林有吾氏の手腕は見事としか言いようがないが、ここで重要なのは能力の完成した葦人をみて発した監督のセリフである。

「自分で決めたというのがすべてなんだ、弁禅。アシトは、この1年があって、自分の能力に少しずつ導かれ、限界も挫折も知り…今日青森戦を迎え、誰しもが北野蓮の存在感に恐怖した、失点までの流れにおいて、あいつだけ、北野蓮の姿におそらく大きなヒントを受けた。

一点に繋がり自分で、自分はそうあるべきと決めて進んだ。自分で掴んだ答えは一生忘れない。あいつのすべてが集約した今日そのものが、覚醒の条件だったんだ。」(15)

これが全てである。なにぶん、このような経験というのはまさにスポーツはもちろんのこと、勉強や仕事においてもまま訪れるものだろう。そこには、お膳立てされた、定められた道を歩むのとは別次元の快楽がある。そしてこの快楽と、そこに裏付けられた知識・経験はその者にさらなる飛躍と快楽を約束する。

なに、大層な一般論を並べ立てたが、私がここで言いたいことは極めて個人的なものである。私はこれより、加速度的に「哲学」を発展させ、ここに公表していくことを誓う。

最後に、これまでの哲学書の全てに感謝を込めて始まりの挨拶とさせていただく。

・木澤佐登志(2019)「ニック・ランドと新反動主義」星海社

・東浩紀(2023)「観光客の哲学:増補版」ゲンロン

・宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品社

・ヒューム(2010)(訳: 土岐邦夫)「人性論」中央公論新社

・プラトン(2013)(訳:中澤務)「饗宴」光文社

・ルソー(1974) (訳:小林善彦)「人間不平等起源論」中央公論社

・石川文康(1995)「カント入門」筑摩書房

・カール・シュミット(2022)(訳:権左武志)「政治的なものの概念」岩波書店

・江藤淳(1993)「成熟と喪失」講談社

・佐伯啓思(1997)「現代民主主義の病理」日本放送出版協会

・竹田青嗣(2010)「超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」」講談社

・宇野常寛(2017)「母性のディストピア」集英社

・キルケゴール(1996)(訳:柳田啓三郎)「死にいたる病」筑摩書房

・竹田青嗣(2012)「超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』」講談社

・東浩紀(2019) 「テーマパーク化する地球」ゲンロン

・ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社

・ビチェ=ベンヴェヌート(1994)「ラカンの仕事」青土社

・アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房

・オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店

(1) ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p53

(2) キルケゴール(1996)(訳:柳田啓三郎)「死にいたる病」筑摩書房p264

(3)宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品社p22

(4)竹田青嗣(2012)「超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』」講談社p253

(5)竹田青嗣(2010)「超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」」講談社p51

(6)竹田青嗣(2012)「超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』」講談社p208

(7)竹田青嗣(2012)「超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』」講談社p204

(8)伊藤邦武(2016)「プラグマティズム入門」筑摩書房p47

(9) 伊藤邦武(2016)「プラグマティズム入門」筑摩書房p63

(10) 伊藤邦武(2016)「プラグマティズム入門」筑摩書房p29

(11) 伊藤邦武(2016)「プラグマティズム入門」筑摩書房p106

(12) 伊藤邦武(2016)「プラグマティズム入門」筑摩書房p134

(13) 伊藤邦武(2016)「プラグマティズム入門」筑摩書房p155

(14)ビチェ=ベンヴェヌート(1994)「ラカンの仕事」青土社p66

(15)小林有吾(2022)アオアシvol.28小学館no.273

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“反デカルトに辿り着く” への1件のコメント

  1. […] ※詳しくはここを見て欲しいが、デカルトに端を発した真理はあるのかないのか、そしてカント的な真理を認識することはできるのかという問題について、プラグマティズムは「真理は認識できない」という基本的立場を取った。大きな理由としては、直感や認識の前提となる知識や物の見方が、特有の言語や文化に依存した主観的な物である、という所であり、そしてそこから自ずと言語の重要性が増したという訳である。 […]

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