・政治
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今日、日本においては在日朝鮮人、アイヌ民族、フェミニズム等ある種政治の道具とされている集団・出来事がいくつかある。政治の道具、つまりイデオロギー化されたのこれらの問題は、その重要性にも関わらず、一般の人々を遠ざけてしまうという現象がしばしば起きている。これらの最も顕著な例の一つが「ウイグル族問題」である。20歳の頃、かつて私にとって唯一の政治・時事的メディアであった「虎ノ門ニュース」においてこの問題はいくつかのホットテーマの内の一つだった。
しかしながら、そんな当時の私にとっても彼等の反中国的なスタンスは露骨で過激に写り、「ウイグル族問題」についても、火のないところに煙は立たないとは思いながらも、どこか眉唾的な感覚で「強制収容所」や「強姦」などの非現実的な話題について受け止めていたのを覚えている。
あれから4年、政治的スタンスをすっかりリベラル側に移した私の元には最早ウイグル問題の話題が入ってることはほぼ皆無になったと言って良い。これこそが、「政治化・イデオロギー化」の深刻な代償である。
そんな折、人文ウォッチの植田将暉さんが新刊として紹介していた本書では改めてこの、監視と抑圧が日常化し、家族と友人と自らの安全が脅かされ、そして文化とアイデンティティと誇りが奪われつつある奇妙な世界の一端を覗きみることができた。
本書における新鮮な衝撃のうちの一つは、「中国共産党」の過剰な宣伝である。空港の入り口の巨大広告「新疆銀行は新疆人自らの銀行です」(1)から始まり、首都ウルムチの広場の中央には「中国人民解放軍進軍新疆記念」(2)と刻まれた高さ30メートルほどの巨大石柱がそびえ立つ。道路の脇には習近平の巨大看板が建てられている(3)。
なんというか、これがもしも小説な漫画の描写として書かれていたならばきっと私はやりすぎだと思うだろう。独裁社会の誇張のしすぎであると。だからこそ、これが現実にあるというのはなかなか奇妙にうつる。
これは読みながらTwitterにも書いたが、本書では現地ウイグル人達の取材、もっと言えば会話への余りにも非協力的な姿勢が幾度となく描かれる。これは偏見だが、欧米先進社会とは異なり、インドやアフリカ、中東諸国の人々は概してフレンドリーで、もの珍しい観光客に対しては向こうから接触してくるというのがセオリーだという認識があった。だからこそ、本書を読み進めながら、ウイグル人達が皆一様に中国共産党の批判や強制収容所の話題について首を傾げたり会話を拒むことについて、作者と同じように歯がゆい違和感を感じていた。もっと言えばもしかしたら先述の虎ノ門ニュースでよく聞いた強制収容所の深刻なエピソードの数々は本当に眉唾物でしかなかったのではないかとさえ思ってしまっていた。
そんな折、料理屋で話しかけてきた26歳の男性が日本の技術へのリスペクトを語り、また、ウイグルの伝統的な文化について作者と友好的に語り合う描写が描かれる。その後、ホテルまで送ってくれるという彼のバイクの背で意を決して例の話題を出したところ、穏和な彼の態度は一変する。「今はその話をしてはいけない。その話はするな。」(3)
「監視」この効果は我々が考えるより余程絶大だ。街中に張り巡らされた監視カメラ、配置された警察官、タクシーの中でさえ会話は録音されている。モスクは破壊され閉鎖され、同胞達は理由もなく次々と収容所へ送られそこでは我々が思うような過激な拷問すらないものの、狭く不衛生な環境でいつ解放されるかもわからないままに拘束され、いとも簡単に衰弱していく。語らないこと、いや、考えないこと、これが最も肝心なことだ。(4)こんな単純なことに気付けないことが、私が彼等の置かれた状況と余りにもかけ離れていることの何よりの証明である。本書ではこの衝撃的な青年の忠告を皮切りに、作者自身の深刻な拘束の体験や国境を超えたカザフスタンにおいて何人かの収容所の体験談が描かれる。それらは一様に生々しく一見の価値がある。
(1)西谷格(2025)「ウイグル潜行」小学館p12
(2) 西谷格(2025)「ウイグル潜行」小学館p15
(3) 西谷格(2025)「ウイグル潜行」小学館p115
(4) 西谷格(2025)「ウイグル潜行」小学館p119