一般的に、我々の社会がこれからどのような変化を迎えていくのかというのは重要な関心ごとである。そしてそれは、当然のことながら個々人の「私はどう生きるのか」の積み重ねによって決定されるわけであるが、そこにおいてメディアはいつも重要な役割を果たして来た。我々には「日常」というものがある。会社、家族、最寄駅、スーパーマーケット。それ自体も確実に社会に接続しているが、しかしそれはあくまでも限られた社会でしかない。そんな我々が限られた社会を超える手段・キッカケとして、「メディア」の存在は不可欠であった。しかし、今日我々が直面しているのはそこに「SNS」という、メディアとは全く形式を異にする、我々を限られた社会から世界へと繋ぐ存在が現れたという事態である。具体的に言えば、ウクライナで何が起きているのか(テレビ、ネットニュース→テレビ、ネットニュース、Twitter)、今年の若者に受ける髪型は何なのか(テレビ、雑誌→テレビ、雑誌、Instagram)。いや、事はもっと重大でウクライナで起きていることも今年の流行る髪型もヒット曲もやばいアニメも、場合によっては、或いはほとんどの割合でSNSが先行する時代がやって来ている(YOASOBI、サウナ、タコピーの原罪、斉藤知事再選、へずまりゅう、ガーシー、クルド人問題…)。「メディア」という、限られた人間、すなわち権力による社会の統制が大きな問題を抱えているのは間違いない。しかし、今それが糾弾され、そしてその結果、どんな思想を持った誰もによって構成されるSNSが、人々が「どう生きるのか」を決定し、その積み重ねによって社会が構成される局面が訪れていることを我々は今一度認識せねばならない。我々は「メディア」誕生以後の数世紀とは全く性質のことなる、第二次世界大戦とか冷戦終結とかコロナとかそういうのともまた次元の異なる大きな時代の転換を迎えつつある。もしそれについて少しでも興味があり、かつ敏感でありたいと思うのであれば、今後の「メディア」の展開が我々の社会がどのようにではなく、どのくらい変化するのかについての良い尺度となることであろう。