・責任
・ヘーゲル
・ニーチェ
・コロナ
・自己
・政治
またしても馬鹿げたことが起きた。
以下は、近日の選挙(第51回衆議院議員総選挙)結果についての中道(中道改革連合)支持とおぼしき知識人による極めて無責任なツイートである。
「これで日本に何か起きたら全て自民党とそこに投票した人の責任ということになる。野党はその日まで力を蓄えると良いと思う。」
彼女は、この度の投票によって、自身が、この複雑なモダニティ社会において自身と世界に起こる森羅万象から免責され得ると本気で考えているのである。なんとおめでたい知識人(馬鹿)よ。
「責任」、これについて真面目に言えば「民主主義」において、自民党は「主権者たる国民」の代表でしかなく、高市「内閣」は執行機関でしかない。つまり、高市内閣の行為の責任は主権者たる国民に帰着する。更に言えば、それは自民党に投票した/しなかった個人ということを意味しない。何故なら、ここで言う国民とは、=個人というものではなくて、個人の集合体(ホッブズ)であり、共同(カント)であり、すなわち、一般意志(ルソー)だからである。(1)
この論理は、哲学的には特別なものではない。ヘーゲルは、精神というものは特殊的には個人に宿るが、同時に普遍的には個人という他者を包括し、他者と自己自身を統一すると述べている(2)。ここでいう普遍的に他者を包括する精神=個人の集合体としての国民というわけである。
普遍的に他者と自己を統一する精神は、絶対精神そのものである。ヘーゲルの「絶対精神」概念の背景には、彼が人間精神の発展は他者への同一化によってなされると考えていたという事情がある。これは、デカルトの有名な一節「我思う、故に我あり」、に端を発したいわば我々には「自己」なるものがあるのかないのか論争へのヘーゲルの回答でもある。
ヘーゲルの自己論について解説をしておこう。
ヘーゲルは、先述したように人間において精神の発展は他者への同一化によってなされると主張したが、そもそもヘーゲルにおける「発展」の定義はそのものが目に見えない潜在状態から、目に見える顕在状態へと変化することである。植物で例えると、潜在状態の胚珠から芽が出て花が咲くというとき、芽や花が顕在化したということができる。「発展」の更なる定義は、
そのものが潜在状態から顕在状態になるとき、同一のままにあり続けるというものである(3)。つまりは、胚珠から出た芽が花になった後、そこについた果実からはまたしても胚珠が生まれるということである。発展した胚珠は胚珠であり続ける。しかしながら、ここで重要なことは、発展前の胚珠と発展後の胚珠は当然のことながら別個体であるという点にある。
では、人間精神はどうであろうか。精神が発展し、自己は他者へ同一化し、他者になる。我々は友人や親や教師や他者から学び成長し、いつしかかつての無垢な私は消え去るだろう。しかしながら、それでもやはり胚珠同様に自己(私)は存在し続ける。更に、これが胚珠その他と運命を異にする人間精神特有の事情であるが、発展した精神(他者へ同一化した自己)は個体においても同一のままにあり続けるのである。これこそが、ヘーゲルの「自己」論、自己存在の証明である。つまりは、ヘーゲルは他者への同一化の果てに「絶対精神」なる概念を導き出したものの、人間には固有の自己が残るものと主張した。
これに対して待ったかをかけたのが精神分析家ジャック・ラカンである。彼の提唱した「言語世界論」とは、人間(個人)が何かを思考する時、その何かを考える材料は全て前提となる言語、知識、他者の考えの元に成り立っているのであるから、思考するということは「言語世界」に身を委ねることと同義であり、そこを通してでしか自らは存在し得ないというものである(4)(5)。つまり、ヘーゲルは個体(身体)の同一化を持って「自己」の存在を主張したが、ラカンは「思考」(言語、知識)の変化を持ってそれを否定したのである。
これをもって、デカルトに端を発し、ヘーゲルが発展させた自己、主体存在論は崩壊した。
もし今現在も我々の自己概念がヘーゲルにとどまり、自己の存在が一般的であるならば、国民概念をこれほど積極的に支持することはできなかったかもしれない。しかしながら、現実には、説得力を持った絶対精神と言語世界があり、そして国民もいる。従って、一個人が投票しなかったから免責されるという、そんな簡単な話はないのである。
しかしながら、我々がこのような病的他責性に陥っていることについて語る余地は多分に残されていると思われる。
まずは、そもそも、「責任」なるものがどこから来たのかについて考えてみたい。「責任」というような抽象的かつ根本的な概念について考える時は、根本を振り返ると良い。つまりは、生物一般である。野原に暮らす1匹のカエルがいる。彼は当然自己責任だとか他責性だとかそんな高尚なことは考えもしないであろうが、一方で彼がその過酷で残酷な弱肉強食の競争を生き抜き子孫を残すことに失敗し、道半ばで命を落としたとして、その「責任」は一体誰にあるのか?否、このような生ぬるい議論は「社会」に生きる人間間においてしか成り立たないものであろう。カエルと動物世界において、「責任」はそもそも成り立たない。敢えて言えば、彼らにとっては生まれた瞬間から全てが自己責任なのである。

このように考えると、病的他責性の原因として「社会」に問題があるかのように思える。
事実、ニーチェは人間が存在する限り全ての時代において人間畜群(血族・部族・共同体その他)が存在し、彼らは常に少数の支配者のもとに多数で服従をしてきたがために、形式的良心的に服従への欲求を持っていると述べている(6)。
この悲しい主張を鵜呑みにする前に、とりあえず彼の口汚い形容「畜群」について定義を炙り出してみたい。
ニーチェは「畜群」について、彼らの幸福は万人のための生活の保証・安全・快適・安心であると言う(7)。また、それがために彼らは公共心・節度・寛容・同情等を美徳としている(6)。彼らの執拗な安全の希求の背景には、恐怖と苦悩への執拗な恐れがある(8)(9)。彼らはありとあらゆる恐怖と苦悩を我が側から取り除かんとするために集団(畜群)の中で波風を立てず、主張を捨てて何者かに服従することを選ぶ。よって彼等は畜群の調和を脅かす冒険心・独立的精神性、孤立への意志、偉大な理性、そして自己責任を嫌う。
胸がザワザワとするではないか。19世紀後半にニーチェが批判の限りを尽くした「畜群」は我々にとり極めて身近である。
そして、ニーチェがここで言っているのは畜群への道は社会そのものというより、社会からありとあらゆる心を害する「恐怖と苦悩」の徹底的な除去にあるということである。では、一体なぜそれが我々をより完璧な畜群へと導くのかについて考えてみたい。
この考察の一助となるのは、畜群的価値観を徹底的に非難したニーチェの美徳であるかの有名な「力への意志」である。
「力への意志」とは何か。力への意志とは、自ずから生成する生きた自然のその「生」の構造を言い当てようとする概念である(10)。そして、ニーチェにおける「生」の構造とは、ショーペンハウアー流の「全く無方向の生命衝動」ではなく、「常に現にあるよりもより強くより大きくなろうとする意欲」である(11)。
これは、先述した動物世界の過酷で残酷な弱肉強食の競争におけるカエルの生き方と完全に合致する。ニーチェは我々にとりこの根本の重要性を認識していたからこそ、力への意志、「常に現にあるよりもより強くより大きくなろうとする意欲」を提唱したのである。
では、「常に現にあるよりもより強くより大きくなろうとする意欲」は何を欲し、何を必要とするのか。
「諸君は、できうべくんばーそしてこれほど馬鹿げた「できうべくんば」はないが一苦悩を除去しようとしている。それでは、われわれは?思うに、実にわれわれは苦悩をかってよりも一層高く、かつ一層酷くしたいと望んでいるのだ!諸君の解するような無事安泰、それは無論、われわれの目標ではない。それはわれわれには終末だと思われるのだ。それは人間を直ちに笑うべきものとし、軽蔑すべきものとする状態であり、人間の没落を望ましめるものなのだ! 苦悩の、大いなる苦悩の訓練、ただこの訓練のみが人間のすべての高昇を創り出したということを諸君は知らないのか。」(12)
ニーチェは実に興味深いことを、そして当たり前の正論を述べている。
「常に現にあるよりもより強くより大きくなろうとする意欲」=力への意志は恐怖と苦悩を求めている。つまりは、困難や試練や挫折(苦悩と恐怖)を乗り越えることこそが、成長への一番の近道であり不可欠な経験であり、責任ある主体になることであるとニーチェは主張しているのである。
「苦悩と恐怖」の必要性については、先述したヘーゲルの人間精神の発展理論についても同様のことを言える。
ヘーゲルは人間精神を発展に導く原動力は常に他者との比較のなかで一種の「自己喪失」にある自らを、他者によって承認されることで真の自由の身にしたいという欲望にあると主張している(13)。
他者からの承認に対する欲求、これは承認欲求そのものである。そして、承認欲求が故に、我々の「自己」は常に他者との過酷な比較に晒され、「自己喪失」に置かれている。これは恐怖と苦悩そのものであろう。
他者への同一化に痛みを伴うことについてはニーチェも興味深い事を述べている。曰く、人間は被造物と創造主とが合一して存在しているのであるが、畜群はこの破砕され、引き裂かれる運命にある、つまり、必然的に苦悩せざるをえず、苦悩すべきである被造物を取り除こうと躍起になっている(12)。
話をまとめれば、責任ある主体になる事(国民になる事)は絶対精神に到達する事、すなわち人間精神を発展させること(他者への同一化)であり、それは「常に現にあるよりもより強くより大きくなろうとする意欲」=力への意志であり、承認に対する欲求に基づく。そしてその達成のためには、恐怖と苦悩の克服、自己喪失からの回復が必要不可欠なのである。
しかしながら、「恐怖と苦悩」というのは少々雑破である。上記ニーチェとヘーゲルの発言は抽象的なものに終止している。
より具体的な「恐怖と苦悩」に該当する感情を挙げてみよう。
「精巧な人形を作るコツを教えましょう
人形にする人間に人間しか持たない感情を入れること 敬愛 崇拝 哀憐 そして隠し味は罪悪感」(14)
上記は、漫画チェンソーマンにおいて、人形の悪魔と契約したドイツからの刺客「サンタクロース」が放った、最高性能の人形の作成に必要な人間のみが持つ5つの感情である。
隠し味の罪悪感、この興味深い苦悩について、江藤淳は以下のように述べている。
「「成熟」するとは、喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの「悪」をひきうけることである。実はそこにしか母に拒まれ、母の崩壊を体験したものが「自由」を回復する道はない。」(15)
江藤もまた、ヘーゲルやニーチェと同様、「成熟」という言葉で責任ある主体になるための苦悩について語っているが、ここではそれは具体的に「罪悪感」である。
江藤は、子供が大人へと「成熟」するためには、保護者である母の喪失(母からの卒業)が必要であるが、それは物理的にとどまらず、母を見捨てたというある種の罪悪感を伴うことによって達成されると述べている。
さて、ここからより罪悪感の真髄に迫っていきたい。先述したように、ニーチェ「力への意志」は、「常に現にあるよりもより強くより大きくなろうとする意欲」であり、ヘーゲル「人間精神の発展論」は承認欲求である。つまりは、どちらも欲望に基づいている。
大江健三郎「万延元年のフットボール」は、罪悪感の根底に見え隠れする欲望を露わにする。
本作は、障がいのある息子を施設に置き去りにし、その反動でアルコール中毒に陥った妻を持つ主人公が、土の穴に閉じこもり、土壁をほじくり返すことによって、傷ついた指の鋭い痛みから、自身でも掴みきれないその痛みの意味の幾分かを理解するという、異常な描写を持って始まる。(16)。その直後の描写は時系列的には少し遡るのであるが、主人公の「友人」が頭を朱色に染め、きゅうりを肛門に突っ込んで憤死している。更に、物語を通じて静的で悲観的な主人公と対をなす存在である弟の鷹四は妹を性欲によって自殺に追いやった過去を持ち、現在ではかつて、万延元年の一揆を引き起こした曽祖父の弟に同一化し、故郷の村を経済的に支配するスーパーマーケットに対して、村人達を扇動し暴動を引き起こすことで、一揆の再演を試みるなど、動的で熱情的な存在として描かれている。しかしながら、彼もまた、黒人街への無謀な冒険や自らを対象とした村人達によるリンチ工作の企てなどしばしば友人と同様の狂気地味た行動に興じ、「友人」と同様、「頭のなかのあるもの」について悩まされている(17)。

主人公は、一揆の首謀者ながら処刑された仲間達と対照的に生きおおせた曽祖父の弟と、彼に対して熱烈で、暴動という形で一揆を再現しながらも狂気のリンチ工作を企てる鷹四を「ヒロイックな幻想」(18)に陥っていると断罪する。また、そんな鷹四と友人がアメリカで分かち合った「頭のなかのあるもの」「本当の事」(19)が何であるのか、更に冒頭のところの自身でも掴みきれないその痛みの意味の本質について理解できない。
そして最終盤、曽祖父の弟が実は安穏と逃げ仰せたのではなく、自らの意志で村の実家の蔵屋敷の地下で孤独な一生を終えたという真実が明らかになる。鷹四は友人と同様、自死を選択する。そして主人公は全てを理解する。つまりは、自身でも掴みきれないその痛みの意味の本質とは、「罪悪感」とそこから来る、或いはそれ自体も含めて自己処罰への病的な欲求である。
主人公は、鷹四と「友人」の「本当の事」(絶え間のない暴力的欲求、これは性的なものも含む。鷹四の妹へのそれと、友人の憤死のそれ)を理解し、その衝動を他者に向けることなく自身で後始末をつけた鷹四に勇気をもらう形で、施設に預けた障がいのある息子を迎えに行くことを妻と共に決心して物語は終わる。
この、病的な自己処罰の欲求、まるで罪悪感を楽しむかのような狂気は、ニーチェとヘーゲル的欲望に重なる。また、罪悪感から自己を処罰するその姿は「責任ある主体」そのものである。施設に息子を迎えに行くことであり、暴力的欲求を自身で処理することである。
その一方、本作では戦後行き詰まる集落の人々の無責任な描写が繰り返される。例えば、村の青年グループは後述するスーパーマーケットの天皇から費用を借りて鶏を大量購入したが、餌を満足に与えずに全滅させた挙句、出資者である天皇への談判を村の外部者である鷹四に期待し、更には天皇が鶏の経済的な処分方法を立案することを空想している(20)。先述したように、作中で鷹四はこのスーパーマーケットに対する暴動を引き起こすわけであるが、村人達は戦前差別し強制労働をさせていた朝鮮部落の朝鮮人の一人が商売で成り上がり、やがて村を含め近隣を支配する一大スーパーマーケットチェーンのオーナーとなり今や経済的に立場が逆転してしまっていることを認めることができず、彼を「天皇」と揶揄し、スーパーマーケットの天皇(朝鮮人)に不遇の全ての原因を押し付けて、妄想のままに暴走するのである。
大江は、どこまでも罪悪感と自己責任(自己処罰の欲求)に立ち向かう彼等(主人公、鷹四、友人)と愚かな村人達を対照的に描くことによって、責任を賛美し、無責任を断罪したのである。
ここまでで罪悪感の正体は何となく明らかになったであろう。罪悪感は、苦悩の中でも一際自己責任的な感情であると同時に、欲望を携えている。つまりは、「責任ある主体」にうってつけの苦悩だと言える。
さて、ここまで「責任」これを持つことの原因(力への意志、承認欲求)と結果(人間精神の発展、成熟、自由)、そして過程(恐怖と苦悩、自己喪失、罪悪感)という抽象的な話題が終始責任論を覆ってきたが、ここよりもう少し制度的、外面的な話をしたい。
さしあたり、昨年にかけて、日本を席巻したクマ問題に関する無責任な主張について紹介したい。
「クマの大量出没が喫緊の課題であることは間違いなく、一刻も早い対処が必要だ」
「寝ている政治家を向かわせれば良い」
「役所は何故早く対応しないんだ」
「これは大変なことです!!市民の安全と暮らしを守るという大前提を行政は担保できていない」
無論、ここでもまた獣相手に右往左往する畜群という指摘もできようが、現実に最早跋扈する熊に対処をする力を持ち合わせたアクターはこの国に「国(警察、自衛隊」しか残されていない。つまりは、「地域共同体」の消失である。
この問題があちこちで叫ばれて久しい今日この頃であるが、19世紀末の段階でデュルケームはこの問題を指摘していた。つまりは、社会的基盤が氏族の結合から地域集団、そして固有の性格を残す同盟関係にある都市と拡大しながら、フランス革命を経た中央集権化と交通路の発達により、「国家」という最大の形を残して消え去ったことにより、国家はその能力に比して過大な機能を背負わされ、激しい努力を重ねながらも非難を浴び続けている(21)。
では本題に入ろう。つまりは、どのようにして「地域共同体」の消失が我々に無責任性をもたらしたのかについてである。
この真実について語るとき、参照すべきはトクヴィルである。トクヴィルは、責任主体である「国民」の在り方が最重要となる、米国の誇った「民主主義」制度の維持において、最も重要を占めるのが、地域共同体(タウン)であると主張する。
タウンにおいては、その小ささが故に、住民の目は社会全体に行き届き、そして自らその経営に参加することができ、自治が完成する。その結果として、住民は安定した秩序のもたらす幸福と、権力の均衡の意味、そして自らの権利と義務について学ぶことができる。そうして彼らの心にはタウンへの愛着が芽生える。(22)(23)
その一方でトクヴィルは、大国について、容易に強大な専制に陥るがために、そこではいつも自由民主主義は手の届かない理想であるという。その理由として、大国の住民には自治を行う実感が容易には感じられず、権利と義務の感覚が希薄になり、愛国心も芽生えない。また、トクヴィルは大国には多数が集まることによって、その単純な総和に比して巨大なエネルギーが生まれることがあると述べている(23)。大国が成し得てきた偉大な技術やエンターテイメントを見ればその効果は明らかであろう。しかしながら、その一方で、このエネルギーが政治に結集するとき、その制御不能の政治的情念はあらぬ方向へ向かう可能性があるとしてこれを危惧している。このことについては後に別に触れたい。
トクヴィルは当時の米国について、連邦制という特異な制度(小ささ(タウン)を維持しながら、同時に大きくも居られる)のおかげで、自身(タウン)らは地域の問題を解決することに全力を注ぎながら、軍事(戦争)と外交を連邦政府に任せ(23)、なおかつ地域共同体(タウン)の存在によって巨大なエネルギーが政治的情念となって火の手のように国全域に広がることを防ぎ(24)、結果として自由民主主義が咲き誇る安全で平和な大国でいられると意気揚々と主張している。
米国の現状が上記のトクヴィルの分析から全きかけ離れてしまっていることについてはいうまでもない。タウン(地域共同体)が消え去った米国に残ったのは、むき出しの連邦政府と巨大な軍事力であり、外側(世界)に対して横暴を奮いつつ、内側においても制御不能の政治的情念の火の手はあちこちで燻り、今や米国を二分する大火に成り上がっている。
つまりは、米国や日本のような大国は、「地域共同体」という自治醸造装置を消失したことによって、民主主義の要である国民から権利と義務の感覚、すなわち責任を奪い、国民足り得ない物にしたということができよう。
さて、「地域共同体」が民主主義の維持(責任ある主体)に最も貢献する点は、住民の目が社会全体に行き届き、自らその経営に参加することができること、すなわち自治を行えるところにあると述べた。
つまりは、問題の本質はその「規模」にあるということができるかもしれない。
事実、ロバート・ノージックは理想の「国家」論、民主主義論として、最低限の権限(自己所有権の保護)のみを有する最小国家が多様に存在する体制を挙げた(25)。ここにおける「最小」とは、その権利の矮小さに加えて、規模そのもののそれも含んでいる。
規模性、加えてヘーゲル的責任主体(人間精神の発展)への原動力と紹介された「承認欲求」の独特な氾濫によって、従来の国家に加えて現代の無責任の牙城となっているTwitterについても触れておきたい。
そもそも、例の投票免責発言、加えて多くの無責任なクマ発言はTwitterにおいて行われたというのは極めて重要な点である。我々はTwitterによって国家に対する無責任性を露わにしている。
規模性について言えば、Twitterは世界を繋げたその無限性にアイデンティティを置いていると言って差し支えないだろう。一方で、かつてオルテガは、対話による相互理解の根本的困難性を主張し、なおかつ当時の2世紀も前から理想とされてきた「万人に向かって」(urbi et orbi)話すということが如何に無謀であるか、そしてそれは結局のところ、誰に対しても話さないことに等しいとして、「書物」の無機能性を主張している(26)。これこそ、まさに「万人に向かって」(urbi et orbi)話すこと(ツイート)を技術的に可能にしたTwitterに対するクリティカルな批判である。
加えて、ヘーゲル的責任主体(人間精神の発展)への原動力となるはずの「承認欲求」はTwitterにおいて逆作用することで、むしろ「無責任」の原動力になり果てている。
宇野常寛は、先述した江藤淳を引き継いで、敗戦によって真の「成熟」を絶たれてしまった戦後日本人のメンタリティについて主張している。戦後日本人は、日米安保体制という、母であり保護者に永遠に守られるという立場に置かれたがために、いつまでも母を喪失して大人になること(成熟)ができなくなってしまった。結果として戦後日本人は常に仮初の成熟を求めて彷徨ってきたわけであるが、インターネットがそれを容易にした(27)。インターネットはTwitterに置き換えることができよう。つまり、無数の人々からのいいねを含むインプレッションは我々に仮初の承認を与えてくれる。しかしながら、仮初の承認の仮初たる所以は、この承認には喪失もなければ恐怖と苦悩の克服、あのカエルのような残酷な競争を生き抜くという「生」の構造が全く欠けているというところにある。彼等はそのことに気が付かず、仮初の承認に満足してしまっている。これが、無責任主体の助長装置、Twitterの正体である。
過大な規模(地域共同体の消失、仮初の承認)によって無責任性を助長してきた国家とTwitterであるが、両場所には更なる無責任加速性の共通性が存する。
「十九世紀の文明は、平均人が苦悩することなく、有り余った手段のみを受け入れて豊かな世界に住みつくことを可能にするという性格を持っている。平均人は素晴らしい道具、ありがたい薬品、先々を考えてくれる国家、快適さを保障してくれる種々の権利に囲まれているのだ。ところが彼はそうした薬品や道具を作り出す難しさを知らないし、未来のためにそれらの製造を確保する困難を知らない。国家組織の不安定なことに気づかず、自身の内部にほとんど義務感さえ持っていない。こうした不均衡が彼を偽りの存在とし、生の実体そのものとの接触を失わせることによって、人間の根源において彼を堕落させる。もちろんこれは絶対的な危険であり、根本的な問題性である。」(28)
つまりは、複雑性である。確かに我々は素晴らしい道具、ありがたい薬品を作り出す難しさを何ら理解していない。Twitterの構造も、国家と権利にまつわる膨大な論点に対しても適切な理解を持っているとは言い難い。
例えば、スマートフォン、サブスクリプション、Amazon、東京メトロ、原子力、Wi-Fi、サイバーセキュリティ、半導体、メタバース、メタプラネット、おすすめ欄、インボイス、円安、集団的自衛権、消費税、社会保険料、スマート農業、古古古古米、お米券、万博、ロックダウン、生活保護、少子化、年金、地球温暖化、生成AI、排外主義…
この、変動の規模とペースの圧倒的な拡大加速を伴った現代社会をギデンズは「モダニティ」社会と評した(29)。
モダニティの特徴は社会変動の拡大加速が、規範の揺らぎ、価値観の目まぐるしい変革を伴って、「自己アイデンティティ」創出(これをギデンズは他者からの信頼によって成り立つと述べている。つまりは、他者からの承認の果てにある人間精神の発展=成熟の現代版といったところである)に困難をきたすところにあるとギデンズはいう。
更に、ギデンズは、この「自己アイデンティティ」創出=他者からの信頼=承認の源は「身体」にあると語っている。
「能力ある行為者は、他の行為者から能力ある行為者であるとつねにみなされる行為者である。そのような人は身体のコントロールの失策を避けなければならない。万一、そのようなことが起きたとしても、「問題」はないことを身振りや間投詞によって他者に知らせなければならない」(30)
これは、先述した言語世界論のラカンのその前提となった考え方「鏡像段階理論」にも共通する。鏡像段階理論とは、幼児期の子供はそれまで自らの身体を統一体だとは思っておらず、 鏡を見て初めてそれを認識するというものである。つまりは、人間は鏡に映った自らの像に自らを「同一化」することで自らを認識、つまり自己を確立している。(4)
これが言語世界論と一体化し、自己、主体存在論の否定へとつながったのであるが、「自己アイデンティティ」創出にしても鏡像段階理論にしても、原点は「身体」にある。
だとすれば、昨今目覚ましいモダニティの身体への種々の影響、
整形、脱毛、ホワイトニング、ダイエット、筋トレ、骨格診断、メンズコスメ、日傘、パック、BMI、SPF、パーソナルカラー…
そう、これら異様なまでの若年層の身体美化に対する執着、目まぐるしい規範の変化「ルッキズム」の所以もまた明らかになるのである。
つまりは、ルッキズムの原動力もまた、本論において頻出する「承認欲求」にあるのだが、この承認欲求はTwitterのそれ(仮初)とは異なる。何故なら、ルッキズムはその原点を愚かな思考(虚言や陰謀論、幼稚な対立)ではなく、身体におき、なおかつ、私にとり日々の筋トレ、自己研鑽であるが、これらは力への意志「常に現にあるよりもより強くより美しくなろう(大きくなろう)とする意欲」に基づいているからである。
ともかくとして、規模並びに複雑性を加味すれば、Twitter、そして国家つまりは、民主主義のあり方について一考の余地があることは確かであろう。
コロナ禍にこの国に何が起きたのかを考えてほしい。あのとき、我々は執拗なまでに「安全」と「命の価値」、即ち恐怖と苦悩を取り除かんと欲し、権威に服従し、自ら狭い家に閉じ篭もることを選択し、調和を脅かす者を弾圧した(自粛警察)。ああ!!畜群!畜群!畜群!
また、先述したトクヴィルによる制御不能の政治的情念について、ニーチェもまた将来を悲観している。彼は、民主主義の促進が、多数の人々を服従的な畜群に追いやる一方、その中において最も危険で最も魅力的な例外者を醸成するには最高の環境であると警告する。つまり、彼は独裁者の誕生を予期していた。その1世紀の後、ニーチェの生まれ育ったドイツにおいて、彼の悪い予感が的中したことについては言うまでもなかろう。
さて、ありとあらゆる点を持って「責任」を我々から消失させてきた問題点について言及してきた。ここで今一度論点を洗い出そうではないか。
・自己責任は、「生」の構造であり、本能であり、力への意志である。
・「国民」になること、「絶対精神」の把握、「言語世界」での研鑽、「自己アイデンティティ」創出こそ、責任ある主体、人間精神の発展した姿である。
・それは、「常に現にあるよりもより強くより大きくなろうとする意欲」、承認欲求に基づく。
・責任ある主体、人間精神の発展、成熟のためには「恐怖と苦悩」の回復、自己喪失が不可欠である。
・上記環境がないがためにTwitterは仮初であり、逆にルッキズムは本質的な承認欲求である。
・「恐怖と苦悩」の具体例(隠し味)として、「罪悪感」が挙げられる。
・責任ある主体(国民)であるためにはその適切な規模と複雑性が必要となる。
・国家は地域共同体を失い、かつモダニティ社会到来のために、そしてTwitterはその成り立ちからして規模と複雑性の問題を孕む。
・恐怖と苦悩、規模と複雑性に直面した人々は無責任かつ服従的な畜群へと陥る。
・上記全ての問題を兼ね備えた民主主義は、それでも「国家」の責任を「国民」に帰着させる。
さて、満足したので一眠りしようかと思う。解決の糸口?さあね、自己研鑽するとか、罪悪感を味わうだとか、或いはTwitterをやめて民主主義の見直しを進めたら良いだろう。
どちらにしても知ったことか。私に責任はないのだから。
(1)互盛央(2016)「日本国民であるために」新潮社p110
(2) ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p113
(3)ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p52
(4) 宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品社p21
(5) ビチェ=ベンヴェヌート/ロジャー・ケネディ(1994)(訳:小出浩之/若園明彦)「ラカンの仕事」青土社p 66
(6) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p171
(7) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p82
(8) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p176
(9) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p178
(10) 木田元(2000)「最終講義」作品社p59
(11) 木田元(2000)「最終講義」作品社 p100
(12) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p233
(13)竹田青嗣(2010)「超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」」講談社p59
(14) 藤本タツキ(2020)チェンソーマンvol.8集英社no.63
(15) 江藤淳(1993)「成熟と喪失」講談社p32
(16)大江健三郎(1988)「万延元年のフットボール」講談社p42
(17)大江健三郎(1988)「万延元年のフットボール」講談社p36
(18) 大江健三郎(1988)「万延元年のフットボール」講談社p400
(19)大江健三郎(1988)「万延元年のフットボール」講談社p30
(20) 大江健三郎(1988)「万延元年のフットボール」講談社p142
(21) デュルケーム(2018)(訳:宮島喬)「自殺論」中央公論新社p673
(22) トクヴィル(2005)「アメリカのデモクラシー第一巻(上)」(訳:松本礼二)岩波書店p110
(23) トクヴィル(2005)「アメリカのデモクラシー第一巻(上)」(訳:松本礼二)岩波書店p257
(24)トクヴィル(2005)「アメリカのデモクラシー第一巻(上)」(訳:松本礼二)岩波書店p265
(25) 木澤佐登志(2019)「ニック・ランドと新反動主義」星海社p64
(26) オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店p13
(27) 宇野常寛(2017)「母性のディストピア」集英社p445
(28) オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店p188
(29) アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房p33
(30)アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房p96