・責任
・ニーチェ
・政治
万延元年のフットボールにおいて、主人公の弟であるところの鷹四は、自分は自身のうちに湧く暴力的衝動の正当化と、そのような自己に対する処罰の欲求に引き裂かれていると語っている。(1)
鷹四は生来の反社会的欲望としての暴力性に加えて、暴走する性欲(暴力性)によって妹を自殺に追いやったという罪悪感(恥)から、自己処罰の欲求を募らせていった。その現れが、黒人街への無謀な冒険(1)であり、異常なリンチ工作(2)であり、そして自死である。
鷹四同様、本作の他の登場人物達もまた、総じて罪悪感(恥)と自己処罰の欲求に覆われている。
主人公とその妻は、障がいのある息子を施設に置き去りにした。主人公が冒頭土の穴に閉じこもり、土壁をほじくり返すことによって傷ついた指の鋭い痛みから、その幾分かを理解した「意味」がそれである(3)。妻はバスの乗客(彼女もまた、障がいを持つ子を育てる母)に嘲笑されることによって、その欲求の幾分かを満たした(4)。
「友人」は鷹四に似ている。彼は、施設で入居者を虐める意地の悪い職員を半殺しにし(暴力性)、反社会的性欲(全裸で胡瓜を肛門に突っ込む)を抱きながら自死した。つまり、それが彼らの本当の事(5)であり、頭のなかの結び目(6)である。
曽祖父の弟が蔵の地下に閉じ籠ったのは、一揆の首謀者でありながら、処刑された仲間たちとは対照的に生きながらえてしまったことに対する罪悪感(恥)によるものであり、その自己処罰の内容は地下(穴)に閉じ籠った点で主人公のそれとリンクする。更には、鷹四のリンチ工作は指の欠損に関わることであったから、ここでも鷹四と主人公のそれはリンクする。
このように、自己処罰の欲求は本質的に「罪悪感(恥)」に関わる。そこに多少の前後関係はあろうとも、一方は他方を必要とし、他方は一方なしには生きられない。その意味で、主人公が暴力的な子供たちの前に片目を失ったのは、後に来る「罪悪感(恥)」に対する自己処罰の前払いのような物であったと言えよう。
自己処罰は欲求であり、手段である。原因は罪悪感(恥)にある。つまり、我々は罪悪感(恥)から逃れるために進んで自己処罰を欲求するのであり、それはさながら、亡者が永遠の地獄の業火に包まれ、金棒を手にした鬼に殴られながらも、そこに相互関係を見出し、鬼に親しみを覚え、業火に心地よさを感じるようなものである。(7)
さて、ここらで、「罪悪感」と「恥」について、その両語に多少の文脈の違いはあれど、本質的に大した差異はないということについて述べておこう。
罪悪感-「罪をおかした、悪いことをしたと思う気持ち。」byコトバンク(8)
恥-「恥じること。自分の欠点・失敗などを恥ずかしく思うこと。」同(9)
意味は上記の通りである。悪いこと=欠点であり、罪を恥じることが罪悪感なのであり、やはりそこに明白な差異を見出すことはできない。
よく挙げられる違いとして、後者が容易に「他者の視線(存在)」に結びつく一方、罪悪感はしばしば、自己の精神内部における反芻、つまりは自己発生、自己完結のものであるという言説がある。
しかしながら、先述のように鷹四における妹や、主人公に対する障がいを持った子供のように、罪悪感は往々にして他者に結びつく。その一方で、一人きりの無人島生活において、怠惰による餓死を想像すると、そこには罪悪感はあっても恥はないように思える。
つまりは、罪悪感と恥とは極めて似通っている一方、限られたある一定部分においては、同一であると言えない。
しかしながら、我々のいる一般社会が他者を前提として成り立っている以上、そこに大きな差異はないのである。よって、以下では罪悪感=恥として扱う。
さて、自己処罰は、処罰であることからその極限は死に直結する。友人や鷹四の誇り高き自死の描写は三島由紀夫の最期を彷彿とさせる。戦争、一揆、暴動、「死」に関連した熱狂的活動は、人々の罪悪感や恥を一時的にせよ滅却してくれるからして好まれる。戦争時に自殺率が低くなるというのは皮肉な物である。彼は自殺からは遠かったがそれとは別の死に近づいたに過ぎない。
日常的な話題を差し込むが、今日私は前週の絶望的寒さとは打って変わって東京を覆った春の陽気に誘われてランニングを行った。そこで、ランニングによる腸への刺激がもたらした猛烈な便意に襲われながら復路を疾走することとなった。
ここで基本的で重要なことを述べると、ランニングという行為は私にとり、ノーマルとして「恥」である。それは、妙ちくりんなファッションに始まり、飛び散る汗とそれに伴うニオイを漂わせ、激しい息遣いと大きな足音で周囲の注目を集めながら、不格好な姿勢とリズムに乗って駆ける(敗走)ことに起因する。
では、このノーマルな状態に、便意による「疾走」という要素が加わる時、果たして「恥」は上塗られるのか。意外なことに、「恥」はむしろ拭き取られる。何故なら、その本質は「便意」ではなく、「疾走」にあるからである。つまり、私は死に物狂いで疾走すること、死に近づくことによって恥から解放され、恥を文字通りかなぐり捨てたのである。
もし、ここまでの議論に対して、私には罪悪感や恥はあっても仰々しい自己処罰の欲求なる物がないという感想を抱いた者があるとすれば、あなたがそれらから逃れるためのあるもう一つの手段の常連になっている可能性を捨てきれない。
それは、「パラノイア的認識」である。パラノイア的認識とは、心理学者ラカンが提唱した、自らの深層の恐れを認めずに、その原因を外部に転嫁した、妄想である(10)。つまるところ、自己処罰が、その負の感情の吐口を自己に向けるのに対して、パラノイア的認識においては、それが他者へと向かう。
負の感情の原因であるところの罪悪感及び恥に大差がない一方で、それらから逃れるための矛先を自らに向けるのか、それとも他者に突きつけるのかという違いは余りにも大きい。
そこには「責任」の有無がある。パラノイア的認識を他責思考と言い換えることもできよう。
他責思考が最終的に本人の為になるのか、幸せに繋がるのか、これは精神論的な問題であるからしてあまり込み入って主張する意味はない。
しかしながら、本質としての我々、「生物」を見ればそこに他責思考などという生ぬるい何かを見出すことはできない。弱肉強食の世界で子孫を残すことのできる一握りの勝者を目指す残酷な戦いに身を投じる生物達の一挙手一投足は、自らの選択・判断による物であり自己責任である。
数多の生物の中で唯一無二の複雑な思考を持った人間は、自らの失敗に「罪悪感(恥)」(原因)を抱くことを覚え、「責任」の概念を生み出し、それを自らに向けた者は自己処罰(手段)の欲求に快楽を見出し、失敗を反省・改善し強者となった(目的)。

「精巧な人形を作るコツを教えましょう
人形にする人間に人間しか持たない感情を入れること 敬愛 崇拝 哀憐
そして隠し味は罪悪感」(11)
その一方で、愚かな弱者は溢れる罪悪感や恥の「責任」を他者に押し付け、恵まれた反生物的な環境の中でぬくぬくと反生物的に生きている。
恵まれた反生物的環境に生きる反生物的無責任人、かのオルテガは、「大衆社会」の重大な特徴の一つが「無責任性」であると述べている。
「十九世紀の文明は、平均人が苦悩することなく、有り余った手段のみを受け入れて豊かな世界に住みつくことを可能にするという性格を持っている。平均人は素晴らしい道具、ありがたい薬品、先々を考えてくれる国家、快適さを保障してくれる種々の権利に囲まれているのだ。ところが彼はそうした薬品や道具を作り出す難しさを知らないし、未来のためにそれらの製造を確保する困難を知らない。国家組織の不安定なことに気づかず、自身の内部にほとんど義務感さえ持っていない。こうした不均衡が彼を偽りの存在とし、生の実体そのものとの接触を失わせることによって、人間の根源において彼を堕落させる。もちろんこれは絶対的な危険であり、根本的な問題性である。」(12)
要するに大衆社会(モダニティ)は、弱者でも発達した技術によって容易に生きることができる点、加えて複雑化した技術と制度が責任の所在を見えにくくする点、これらによって本質的に無責任性に結びつくのである。
ニーチェが大衆を嫌うのもここに理由がある。
ニーチェの「力への意志」は自ずから生成する生きた自然のその「生」の構造を言い当てようとする概念である(13)。ニーチェは生の構造(力への意志)について、本質的に他者への侵害、搾取、抑圧をも意味していると述べている(14)。
ニーチェは弱肉強食であり、人間以外のその他大勢の生物側であり、そして人間の中でも自己処罰への欲求を募らせる側に違いない。
「聖職者たちは悩める者に慰めを、抑圧され絶望する者に勇気を、独り立ちできない者に杖と支えを与え、内面的に破滅した者や荒み果てた者を社会から引き離して修道院や精神院に誘き入れた。その上、良心の疾しさなしにあれほど原則的に、すべての病める者と悩める者の保存のために、換言すれば、行為と真実においてヨーロッパ人種の劣悪化に努力するために、彼らは何を為さなければならなかったか。すべての評価を逆立ちさせること、これを彼らはしなければならなかったのだ!」(15)
近代以降日本の特徴として語られる「恥」の文化は、昨今批判的視点を向けられがちではあるものの、基本的には生物的本質に根差した立派なものであるに違いない。日本人は他者と共存し、生き抜くために「恥」の概念を生み出し、発展させてきた。
私はこの巨大人口を有する日本の治安が、その残念な経済状況にも関わらず比例して悪化しないこと、それらが作用してなんだかんだ言いながらも西欧諸国に比して牧歌的雰囲気が維持され続けていることに、「恥」の文化は大きな役割を果たしていると考えている。
そうであるからして、問題はやはり、「恥」の払拭の矛先が自己処罰であるかパラノイア的認識であるか、更には目的(自己処罰)を見失ってしまうことにある。
「統制違反よ、星」とキイキイ声でさかしげな注意をした肉体派の娘(16)、そして一時の熱情に感染した住職の描写は共同体意識(空気読み)の暴走の恐ろしさをアリアリと教えてくれる。
万延元年の一揆、鷹四の主導した暴動、更には福田村事件も、罪悪感と恥を糧にした共同体意識の暴走に他ならない。
スーパーマーケット(かつて村で差別されていた朝鮮人が、現在では村を経済で支配するその象徴)に対する暴動が鷹四の自死によって消息したのちに、スーパーマーケットの天皇(村人達の朝鮮人オーナーへの蔑称)が村を訪れた際、更新する天皇に道すがら出会った人々の抱く「恥」は「無力な恥」(17)であると描写されている。
米軍進駐に対しても同じことを言えるだろう。つまりは、「無力な恥」とは圧倒的な力を前にして、自己処罰へと結びつかない意味のない恥である。
では、有力な恥とは何か。鷹四は暴動において、全住民にスーパーマーケットの商品を盗ませるという「罪悪感(恥)」の共有(18)をすることで共同体意識を高め、暴動の悪化に成功した。つまり、これは朝鮮人に矛先を向けたパラノイア的認識(有力な恥)である。
これは恥(空気読み)の文化の有力で悪しき例である。では、コロナ禍における自粛警察、或いは発足早々にオミクロン株への迅速な対応を評価された岸田政権が、結果的にマスク着用や黙食、入国規制や感染待機日数に代表されるコロナ対策を世界でも有数に長引かせたことは何を意味しているのか。これはある意味で自己処罰に他ならない。日本国民は、必要以上の多大な自己処罰(過大に有力過ぎる良き恥)を行なったと言えよう。
ここで振り返るべきは、自己処罰は欲求であり、そして手段に過ぎないということである。つまり、目的は力への意志に根差した、強者になること、生き抜くことにある。目的を見失った自己処罰、例え有力かつ良きものであるとしても、過大すぎるそれに高尚な価値を見出すことはできない。
近日の選挙結果(第51回衆議院議員総選挙)について、躍進したチームみらいに対する票泥棒やら工作やら何やかんやら根拠を欠いた支離滅裂な陰謀論が論外であるのは当たり前にして、中道(中道改革連合)支持とおぼしき知識人による、極めて無責任なツイートが以下である。
「これで日本に何か起きたら全て自民党とそこに投票した人の責任ということになる。野党はその日まで力を蓄えると良いと思う。」
様々な前提を欠いたこのツイートに、まともに応対・批判する気も起きないので特に引用とせず、不特定者によるツイートとして扱うが、この余りにも過大な無責任性が如何に幼稚で愚かであるかということに議論の余地はないだろう。彼(彼女)は、自らの生活と地位とが、幾千もの人々の努力の上に成り立っていることをいささかも理解しようとせずに、その上で更に自身と世界に起きる森羅万象から免責され得ると本気で考えているおめでたい知識人(バカ)である。
政治学的に以下のようなことが言える。国民とは、個人の集合体(ホッブズ)であり、共同(カント)であり、すなわち、一般意志(ルソー)である(19)。国民は、社会契約を結ぶ前の個人とは明確に区別される。これの表す所は、主権が国民にあり、国民が個人の集合体である以上、主権を代表する所の内閣(国家)の行為は、国民の行為であり、国家(内閣)の責任は、国民の責任であり、つまり、国民を構成する個人の責任であるということである。
つまるところ、オルテガが言ったように、我々はこの有り余る文明(スマートフォン・サブスク・インフラ・Amazon・加工食品・ファストファッション・エアコン、他多数)を享受しようとする限りで、完全な個人にはなり得ないのであり、どうしたって共同体、国家の一員であるしかないのである。その恵まれた環境への感謝が少しでもありさえすればどうして先述したような無責任発言ができようものかという話である。
恵まれた環境にあるバカに限って、リバタリアニズムだとか、おひとり様だとかくだらない理想を掲げる。弱肉強食、全責任を自らが背負わなければいけない世界が如何に残酷であろうことか、彼等には想像力が欠けている。決定的に。
(1)大江健三郎(1988)「万延元年のフットボール」講談社p346
(2)同p381
(3)同p42
(4)同p84
(5)同p30
(6)同p34
(7)同p120
(8)コトバンクhttps://kotobank.jp/word/罪悪感-507149#:~:text=読み・例文・類語-,ざいあく%E2%80%90かん【罪悪感】,を罪悪と感じる気持%E3%80%82(閲覧日:2026.2.15)
(9)コトバンク https://kotobank.jp/word/恥-114125#goog_rewarded(閲覧日:2026.2.15)
(10) ビチェ=ベンヴェヌート/ロジャー・ケネディ(1994)(訳:小出浩之/若園明彦)「ラカンの仕事」青土社p49
(11)藤本タツキ(2020)チェンソーマンvol.8集英社no.63
(12)オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店p188
(13) 木田元(2000)「最終講義」作品社p59
(14) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p306
(15) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p113
(16) 大江健三郎(1988)「万延元年のフットボール」講談社p325
(17)同p415
(18)同p306
(19) 互盛央(2016)「日本国民であるために」新潮社p110