ヘーゲルは個体か思考か&コラム(ヘーゲル宗教観)


自己

ヘーゲル

ヘーゲル思想において、人間の「自己」の確立は、精神の「発展」によってなされる。「発展」の定義は、そのものが目に見えない潜在状態から、目に見える顕在状態へと変化することである。これは、潜在状態の胚珠から芽が出て花が咲くというとき、芽や花が顕在化したという風に例えることができる。

「発展」の更なる定義は、発展するとき、そのものは潜在状態から顕在状態になりつつも同一のままにとどまり続けるというものである。(1) これはつまり、胚珠から出た芽が花になって、そこについた果実からはまたしても胚珠が生まれるということである。しかし、「精神」における発展の特別な点は、胚珠らとは異なり、潜在状態と顕在状態において、それ(精神)は同一個体にあり続けるという点にある。つまり、「私」は発展し自己意識が芽生えたとしても「私」という個体であり続けるが、その一方胚珠が次に胚珠になる際には、最早別個体になっているという差異である。

これの何が特別であるのか。それを語るにはヘーゲルにおける「精神」の発展の定義を明らかにせねばならない。

「他者を自覚するものは他者と同一の存在であり、だからこそはじめて、精神は他者のうちにあっても自己を失うことがない。」(1)

ヘーゲルは、人間精神が発展、つまり顕在化することは他者に同一化することであるという。その真意は、人間が成長する際には、手本となる他者の存在が不可欠であるということである。そして、ヘーゲルが上記で述べているのは、人間精神においても、その発展の際に、表層では他者(別個体)になると言えるが、その実態は他者(同一個体)なのであり、つまり、それによって自己は他者という存在がありつつも、決して失われない自己があることに気がつくことができ、これこそが人間のみに「自己」があることの何よりの証明になるというのである。

ヘーゲル自己論については、このようにあくまでも自己は失われないという読み方ができる。その点で後のラカンによる、人間が何かを思考する時、その何かを考える材料は全て前提となる言語、知識、他者の考えの元に成り立っているのであるから、思考するということは「言語世界」に身を委ねることと同義であり、そこを通してでしか自らは存在し得ないという主張(2)(3)、つまり、本質を個体ではなく、思考の前提となる言語、知識に置くことにより、自己の存在を否定する主張とは異なる立ち位置にあると言えよう。

なお、両者の間の時代のニーチェは、「あの「われは思う」は、私が私の現下の状態を、私が私において知る他の状態と比較して確定する、ということを前提にしているのである。このように現下の状態は他の時・所の「知識」と遡って関係づけられるから、それは私にとってとにかく直接的な確実性をもたない。」(4)と述べている。ここから、ニーチェについても、個体の同一性ではなく、「思考(知識)」そのものに注目しており、自己の存在の有無には明言していないといえども、ラカン思想の源流を見てとることができる。

ここまでが、私の自己論の展開に対する解釈だったのだが、結論、ヘーゲルについても、ニーチェ・ラカンに通じる「思考」に注目した自己存在の否定論の要素を見ることができるという考えに至った。

というのも、ヘーゲルにおける絶対精神の把握がどのような状態を指しているかという話だが、彼は精神というものは特殊的には個人に宿るが、それと同時に普遍的には個人という他者を包括し、他者と自己自身を統一すると述べている(5)。つまり、精神は特殊的であり普遍的である。これはそのまま読むと理解が難しいが、似た話に特殊的な個人と普遍的な国民の差異がある。つまり、我々は特殊的には一個人であり、自身(個人)の行動の責任を自身(個人)が負う。一方で我々は同時に日本国の国民でもある。そして、国民とは個人の集合体(ホッブズ)であり、共同(カント)であり、すなわち、一般意志(ルソー)である(6)。つまり、個人がやっていないこと(戦争における残虐行為)の責任を、その国家の国民として引き受けなければいけない場面が存在する。そう考えると一般意志、或いは国民的であるところの絶対精神(普遍的な精神)が何となく理解ができるのではないだろうか。

このことは、あくまでも絶対精神が建て付けとして一般意志的な、ある種皆の考えや言語が凝縮された普遍的な思考の塊、或いはラカンの「言語世界」を彷彿とさせるものであり、その中身に自己存在の否定論に繋がる要素を見てとることはできない。しかし、外面的に後の「思考」に注目した自己存在の否定論に繋がる要素を見てとることができるとは言えるのである。

(1)ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p52

(2)宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品社p21

(3)ビチェ=ベンヴェヌート/ロジャー・ケネディ(1994)(訳:小出浩之/若園明彦)「ラカンの仕事」青土社p 66

(4)ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p36

(5)ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p113

(6)互盛央(2016)「日本国民であるために」新潮社p110

○ヘーゲル哲学における宗教観

ヘーゲルにおいて、哲学と宗教は重要な関係にある。それというのも、宗教の唯一の目的である神を認識すること(1)は神という他者の声を聞き取ること(信仰)を意味しており、これはヘーゲル哲学における他者との統一=自己の発見、そして終着点であるところの絶対精神の把握(2)へと至る歩みと同内容を示しているからである。では、両者の何が異なるのか、これについてヘーゲルは本質(内容)ではなく形式が異なるのだという(3)。というのも、宗教における神(他者)は外からやってくるものであり、キリストが「精神があなたたちを真理に導くであろう。」(1)と語っていたとしてもそれを信者たちはあくまでも感覚的に、イメージでしか理解していない(4)。哲学はそれを精神を持って理解できること、つまり今の我々のように思考として「ああ、宗教は我々のやっていることと同じではないか」と理解できる点で優っているのだと述べている。

「教会の内容を概念的に思考する哲学は、宗教のイメージにくらべると、自他をともに理解するという点でまさっています。」(4)

(1) ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p114

(2)同p149

(3)同p121

(4)同p123

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