かつて存在した民主主義の最強形態&最小規模「地域共同体」について


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トクヴィルの米国論は、正直のところ現状の米国とのギャップに満ち満ちている。具体的にそれは、「米国において政治的情念が火の手のように国全域に広がることはない(1)」や「他の何人もアメリカ人を必要とせず、アメリカ人もまた何人をも必要としない(2)」といった言説である。トクヴィルが、民主主義の理想郷であると考えた当時の米国にあって、今の恐るべき米国に失われたものは何か、それを考える時、ある事柄が頭に浮かぶ。すなわち、地域共同体(タウン)が失われ、グローバル化が米国を包んだのである。

地域共同体が失われたというとき、それはある面では日本にも適用することができる。しかし、アメリカにおいて地域共同体は=地方公共団体である一方、日本においてはそうではないということは重要な点である。というのも、アメリカにおいては、州がタウンを創り、タウンに権限を与えたのではなく、そこに存在したタウンが州に一部の権限を譲渡したからである(3)。この驚くべき事実を知るとき、前者の価値観しか持たない我々日本人は直感的にアメリカの持つ民主主義の強さと、我々との根本的な違いを理解することができる。トクヴィルはこの状況を以下のように評している。自由な個人は、自らの利害において最善の判定者であり、社会が個人に干渉して良いのは、社会が個人の行為によって被害を被ったとき、或いは社会が個人の協力を要請するときに限られる。そして、米国において、タウンとは自由な個人であり、州こそが社会であると(3)。

さて、トクヴィルはタウンについて、その小ささが故に、住民の目が社会全体に行き届き、自ら経営に参加することができ、自治を行うことができると言う。その結果として、住民は安定した秩序のもたらす幸福と、権力の均衡の意味、そして自らの権利と義務について学ぶことができる。そうして彼らの心にはタウンへの愛着が芽生える。(4)(7)

民主主義と「規模」の議論については、後の時代の哲学者、ロバート・ノージックのリバタニアニズム論でも言及されている。彼の理想の国家体制とは、最低限の権限(自己所有権の保護)のみを有する最小国家が多様に存在するというもの(8)であるが、ここにおける「最小」の意味は、その権利の矮小さに加えて、規模そのものの最小さをも含んでいる。

もっと言えば、オルテガは対話における相互理解、すなわち民主主義の根本が成立する条件について、その規模の重要性を指摘している。曰く、対話による相互理解が根本的に困難なものである以上、2世紀も前から理想とされてきた「万人に向かって」(urbi et orbi)話すなどということはもってのほかであり、それは結局、誰に対しても話さないのに等しいのであると(9)。

トクヴィルは、米国が他国と一線を画して理想郷であるのは、小ささ(タウン)を維持しながら、同時に大きくも居られるという、連邦制という特異な制度に由来すると主張する。米国は実態としてのタウン、州を挟んで連邦政府として成立しているのが革命的なのである。

小さくありつつ、同時に大きくもある。これによってどのように互いのメリットを活かし、デメリットを補い合っているか。

小ささのメリットは先述の通りである。つまり、自由民主主義にとって小ささはこの上ない推進力になる。

では小さいことによるデメリットは何か。当然のことながら、戦争を含む大国との付き合い方は小国の憂慮すべき永遠のテーマである(7)。

そしてこのデメリットは連邦制、すなわち大きさによって補うことができる。アメリカにおいては、軍事と外交を連邦政府に任せて、各タウンは運河や道路の整備、地域の問題を自ら解決することに集中することができるのである(7)。大きさには、特有のメリットも存在する。人間は、多数が集まるとき、そこに単純な1+1ではない相乗効果を生み出すことがある。その結果として、大国には文化や技術が花開き、都市には独特のエネルギーが満ちている(7)。

最後に、大きいことによるデメリット。これこそがドナルド・トランプ要する米国の現状を表す上で最もクリティカルな表現であろう。大国においていつも自由民主主義は手の届かない理想であり、彼らは容易に強大な専制に陥る。大国の住民には自治を行う実感が容易には感じられず、権利と義務の感覚が希薄になり、愛国心も芽生えない。また、多数が集まって生まれる巨大なエネルギーが、一度政治に向かうとき、その制御不能の全体意志があらぬ方向へ向かうこともある。

そして、言わずもがな、これらは小さいことによるメリットと合わせ鏡になっている。つまりは、地域共同体(タウン)の存在が、政治的情念が火の手のように国全域に広がること(1)を防ぐのである。

トクヴィルはこれについて、小事(タウン)において自由を用いる術を学んだことのない群衆に、どうして大事における自由を支えることができるのだと述べている(5)。

デュルケームも同じようなことを述べている。曰く、社会的基盤が氏族の結合から地域集団、そして固有の性格を残す同盟関係にある都市と拡大しながら、フランス革命を経た中央集権化と交通路の発達により、「国家」という最大の形を残して消え去ったこと(6)により、国家はその能力に比して過大な機能を背負わされ、激しい努力を重ねながらも非難を浴び続けているのであると。

実態としてのタウン(地域共同体)が消え去った米国に残ったのはむき出しの連邦政府と巨大な軍事力だった。この軍事力とグローバル化は、「他の何人もアメリカ人を必要とせず、アメリカ人もまた何人をも必要としない(2)」状況※1を解消し、過去80年、米国はまごう事なき世界の中心であり続けている。

更には、その有り余る力の他先は外部へと留まらない。現米国大統領トランプは、先の大統領選において以下のような事を述べている。

「より大きな問題は国内の人だと思う。米国には非常に悪い人間がいるし、病んだ人々もいる。急進左翼の異常者だ」

「必要なら州兵によって、あるいはもし本当に必要なら軍隊によって、ごく簡単に対処できると思う。彼らならそういった事態になるのを未然に防げる」(10)

この発言からはや、1年3ヶ月が経過した現在、米国は外部にはベネズエラへ侵攻し、内部的には連邦政府率いるアメリカ合衆国移民・関税執行局(ICE)がリベラルで名高いミネアポリスに対して大規模な介入を行っている。ICEがミネアポリスで起こした複数のの市民の射殺事件は州政府と連邦政府の緊張をこれまでになく高めている。

最後に、日本について語って終わりたい。日本にはトランプが暴れる米国を嘲笑する者もいるであろうが、日本は「大きさ」が法外であることと、「地域共同体」が全くもって消失してしまったことにおいては全く米国と状況を共通にしている。

昨年、大きな社会問題となったクマの街への出没について、実態としての地域共同体をなくし、更に精神としても自治精神を失い、権利と義務、すなわち「責任」の何たるかを最早知らない日本人が、ネット上で声高に政府や役所への責任転嫁、過剰な要求をする様は、現実としてのクマの脅威とは別個の、今の日本の危機的な状況を感じさせ暗澹たる気持ちにさせてくれた。

トクヴィルは、地域共同体が、人民に自由の平穏な行使たる物が何かを教えてくれると言う。地域自治なしでも、国民は自由な政府を持つことができよう。しかし、そこに自由の精神はない。束の間の情熱と、一時の関心が国民にひと時の民主主義をもたらすことはあるかもしれない。しかしながら、そのような社会では、内部に押し込められた専制が遅かれ早かれ顔を覗かせることになる(12)。

※1 驚くべきことに、トクヴィルは当時の米国について、合衆国は海軍が弱く、また、海によって他国と隔てられているが故に、大統領が外交権を発揮する場面は少ない(11)と述べている。どんなパラレルワールドだよと思ってしまうが、同時に、未来というのがいかに不確かなものであるかがわかる重要な記述である。

(1)トクヴィル(2005)「アメリカのデモクラシー第一巻(上)」(訳:松本礼二)岩波書店p265

(2)前掲p210

(3)前掲p104

(4)前掲p110

(5)前掲p153

(6) デュルケーム(2018)(訳:宮島喬)「自殺論」中央公論新社p673

(7)トクヴィル(2005)「アメリカのデモクラシー第一巻(上)」(訳:松本礼二)岩波書店p257

(8) 木澤佐登志(2019)「ニック・ランドと新反動主義」星海社p64

(9) オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店p13

(10) CNN(2024.10.15)「トランプ氏、「内なる敵」に軍隊使用する考え示唆 米大統領選当日」(URL)(アクセス日:2025.1.13)

(11)トクヴィル(2005)「アメリカのデモクラシー第一巻(上)」(訳:松本礼二)岩波書店p203

(12)前掲p97

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