デュルケームメモ


社会

デュルケームが生み出した「アノミー」という概念は「無規制状態」を指す。要するに彼の言うアノミー的自殺とは、社会の規制していた欲望が解き放たれた結果、つまり、欲望があらゆる法に優り、生きる上での指針となった資本主義社会(1)において、それが満たされないことに絶望を感じ死へと至るというものである(2)。

一方で彼の他の自殺分類には「自己本位的自殺」(3)があるが、これは社会への統合から個人が解き放たれた結果、つまり個人主義がその性質として持つ孤独と自己に対する反省、生きる目的に対する思索が招くものであるという。

これについてデュルケームは、社会(伝統=宗教)の統合の崩壊は、人々に知識を得ること、自ら考えることを要求し(4)、そして深い考察は切り離された社会ではなく自己に向かうこと、或いは考えること=行動を留保することであり、すなわち生きることをやめることであるから、やがてそれは自殺を招くのである(5)と、その独特な言い回しによって説明している。

デュルケームは両分類について、無規制は自己本位無くして起こりえないと述べているが(6)、まさにこれらはヘーゲルに言う自己の発展とそれを推進する承認欲求論のことを指している。加えて、「自殺論」の解説で彼の優れた研究者の一人としてギデンズが挙げられていることからも分かる通り、ギデンズの提唱したモダニティ社会における不安は、アノミー状態を引き起こした社会状況(資本主義、自由民主主義)の未来を言い表したものと言えよう。

他に興味深いのは、資本主義社会とは別個のところで、つまり、婚姻関係という制約は、男性の性的欲望を規制することで男性の自殺を抑制しているという主張である(7)。この論は、離婚制度の整った国においては、婚姻関係の破綻の可能性が、男性の不安を抑制する蓋を緩めてしまい、離婚制度のない国に比べて自殺の抑制が弱いことによっても裏付けられている(7)。

最後に、デュルケームは社会的基盤は氏族の結合から地域集団、固有の性格を残す同盟都市へと拡大しながら、フランス革命を経た中央集権化と交通路の発達により、「国家」という最大の形を残して消え去ったと述べている(8)。そして、その結果国家はその能力に比して過大な機能を背負わされ、激しい努力を重ねながらも非難を浴び続けているという。これは、昨今のクマ問題をはじめとする種々の課題に対する人々の異常なまでの国家に対する期待と責任の押し付けを彷彿とさせる。どう考えても、家の庭にクマが出たことに対する責任を高市政権に求めるのは酷であるし、その一方で、地域に蔓延するクマを一掃する能力は家族にも役場にもなく、「国家」だけがそれを成し得るのである。

(1) デュルケーム(2018)(訳:宮島喬)「自殺論」中央公論新社p422

(2)同p416

(3)同p322

(4)同p253

(5)同p470

(6)同p484

(7)同p449

(8)同p673

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