・責任
・社会
昨年にかけて、日本を席巻した話題の一つがクマ問題である。私はこのクマ達の異常なまでの人間界への出没の背景には、有史以来連綿と受け継がれてきた動物界の頂点としての「ホモ・サピエンス」的観念が、少なくともここ日本において初めて失われつつある(失われた)という重大かつ奥深い背景があると考えている。しかし、今日の主題はそれではない。私が槍玉に上げるのは、以下のような主張である。
「クマの大量出没が喫緊の課題であることは間違いなく、一刻も早い対処が必要だ」
「寝ている政治家を向かわせれば良い」
「役所は何故早く対応しないんだ」
「これは大変なことです!!市民の安全と暮らしを守るという大前提を行政は担保できていない」
断っておくが、私は公務員である。しかしながら、私は私がこれらの言説に対して「無責任」極まりないとため息をつかざるを得ない背景に、私が公務員であることは関係していないと考えている。
問題の本質は、クマどうこうにはない。「国家」と「私」の「責任」をどう考えるかにある。
人々の無責任性について、オルテガは「大衆社会」に特徴的であると述べている。
「十九世紀の文明は、平均人が苦悩することなく、有り余った手段のみを受け入れて豊かな世界に住みつくことを可能にするという性格を持っている。平均人は素晴らしい道具、ありがたい薬品、先々を考えてくれる国家、快適さを保障してくれる種々の権利に囲まれているのだ。ところが彼はそうした薬品や道具を作り出す難しさを知らないし、未来のためにそれらの製造を確保する困難を知らない。国家組織の不安定なことに気づかず、自身の内部にほとんど義務感さえ持っていない。こうした不均衡が彼を偽りの存在とし、生の実体そのものとの接触を失わせることによって、人間の根源において彼を堕落させる。もちろんこれは絶対的な危険であり、根本的な問題性である。」(4)
要するに大衆社会を成立させるところの便利な技術と制度が併せ持つ複雑制がドラえもん的な便利屋概念を作り出し、無責任性を作る温床となっているというところであろう。

一方で、デュルケームは、社会的基盤が氏族の結合から地域集団、そして固有の性格を残す同盟関係にある都市と拡大しながら、フランス革命を経た中央集権化と交通路の発達により、「国家」という最大の形を残して消え去ったこと(5)により、国家はその能力に比して過大な機能を背負わされ、激しい努力を重ねながらも非難を浴び続けていると述べている。
これは実務的な問題を表していると言えよう。事実、今日の日本において、一家族は言わずもがな、地域社会ですら、街を跋扈するおびただしい数のクマ達に対して、適切な対処をする力を持ち合わせていない場合がある。最早、この前代未聞の危機的状況を解決できる最良のアクターがあるとすれば、警察、自衛隊、国家権力しか残されていないのかもしれない。
これらの事実は、クマ問題に対する無責任性の原因の一端が社会の複雑化及び空洞化にあることを表している。
さて、これより語るのは、上記に述べた「原因」の解決策ではない。我々がクマ問題に対して、国家に責任と義務を押し付けて無責任の態度であって良いのかという、いわば国家論である。
そもそも、国家とは何か。国家とは自然状態(個人が自由で平等で、所有権が求められている状態byロック(1))にある個人がより強い安心安全を確保するために、ルールを遵守することを約束し(社会契約)、自らの自然権を一部犠牲にすることにより創られた、個人の集合体である。
もちろん、これは概念ではあるが成り立ちとしてそうなのだ。だとすれば、我々は自らの意志で自らの権利を一部毀損してまで創り上げたそれ(国家)に対して無関係、無責任であろうとする態度を少々身勝手かもしれないと思える。
加えて、何と言っても日本国は「民主主義」である。つまり、例え国家を作ったのが個人の意志であるとしても、主権が個人にないのであれば、個人の責任と義務が希薄になってしまってもやむを得ないと考えることもできる。では、民主主義がどうかと言えば、これの定義は、「統治する者が統治される者であり、統治される者が統治する者である体制」(2)である。つまり、民主主義は主権が国民にあることによって初めて成立する。
ここで重要なのが個人と国民の差異である。つまり、国民とは、個人の集合体(ホッブズ)であり、共同(カント)であり、すなわち、一般意志(ルソー)である(3)。国民は、社会契約を結ぶ前の個人とは明確に区別される。これの表す所は、主権が国民にあり、国民が個人の集合体である以上、主権を代表する所の内閣(国家)の行為は、国民の行為であり、国家(内閣)の責任は、国民の責任であり、つまり、国民を構成する個人の責任であるということである。また、これらの事実は、選挙において代表(自民党及び高市内閣)に投票しなかったから責任がないという言説が成り立たないことを意味している。
これらの事実を改めて認識した時、これまでのクマ対策の失敗の責任を国家に押し付けたり、まるで国家や行政をなんでも解決してくれるドラえもんや親のように思うことが、以下に的外れで、むしろ危険であるということを薄々理解できるのではなかろうか。何故なら、無責任な個人の集合体である所の無責任な国民の代表は、無責任でしかあり得ないからである。
さて、国民の責任について語る時、切っても切り離せないのは外国に対する過去の責任についてである。
世界が再び帝国主義に包まれ、中国が積年の願いである台湾接収に向けた野心をむき出しにしていること、或いは、高市総理の台湾危機をめぐる発言によって日中の対立が激化の一途を辿っていること、更には高市総理がマレーシアの日本兵の墓を訪れたことに関するツイートに対してマレーシアから激しい非難の声が上がったこと、これら全ての問題は、我々が個人である前に、個人の集合体として日本国家の主権を担う日本国民である以上、過去の罪に対する責任を免れないことを認識できるかによって、幾ばくかの事態の好転を見せるのであろう。
(1)互盛央(2016)「日本国民であるために」新潮社p34
(2)同p86
(3)同p110
(4) オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店p188
(5)デュルケーム(2018)(訳:宮島喬)「自殺論」中央公論新社p673