・自己
・認識
本論考は、哲学、いや哲学的試み(複数の哲学(コンテンツ)を批判し、かつ、関連付ながら伝承していくこと)に魅了された筆者が、極めて少ない冊数を読破してやっとこさ掴み取った哲学史における一つの流れを自分なりにまとめた暴論である。
これは、いわゆる保険的言説ではない。自信のなさ、卑屈さの表れではあるかもしれない。しかし、何よりも歴とした事実である。
またその一方で、あらかじめお膳立てされた、定められた答えを見つけ出させてもらったこと(伏線回収)に気づかず、仮初の興奮に浸っている訳ではない、自ら学び、苦しみ、考え、決断した知の歩みの歴史である。
本気の暴論をご覧あれ。
❶自己の有無、真の自己意識の確立、自由への欲望、承認欲求。
「われ」は制約であり、「思う」は述語であり、制約されたものである、と言われた。思うことは一つの活動であり、それには原因としての一つの主語が考えられなければならない。さて、驚くべき執拗さと彼智とをもって、この網から脱け出ることができないかどうかが試みられた。もしかすると、その逆が真なのではないか。「思う」が制約で、「われ」が制約されたものなのではないか。従って、「われ」とは思うことそれ自体によって作られる一つの綜合なのではないか。カントが根本において証明しようとしたのは、主体からして主体は証明されえない、客体もまた証明されえない、ということであった。(1)
「善悪の彼岸」(2)の一節、ニーチェによるカント論である。
ここで述べられていることの前提は、デカルトのぶち上げたかの有名な一節「我思う、故に我あり」である。これは、「思う、考える」という、根本的、根源的な活動をもって、この世に存在すると考えられているありとあらゆる万物に先んじて、まず「我」(自己)が存在することの証明になるという言説である。このデカルトの放った一言は哲学者たちを知へと駆り立てた。
ニーチェが述べているように、知の大海原でデカルトの意志を引き継ぎ、彼の自己(主体)肯定論を否定したのはカントであった。
その論理は、「思う、考える」によって「我」(自己)が作られるのであれば、それは不可逆に存在するものとは言えないし、なおかつ、都合よく当てがわれた幻想の可能性すらあるということである。カントはデカルトの論理によって自己(主体)の存在を肯定することはできないと主張した。
さて、西洋哲学史において、デカルト、カントに続く者についての見解は、一致していると言って良いだろう。ヘーゲルである。
ヘーゲルの自己論について語る時、切り離せないのは彼の「発展」論である。
ヘーゲル思想において、人間の「自己」の確立は、精神の「発展」によってなされる。「発展」の定義は、そのものが目に見えない潜在状態から、目に見える顕在状態へと変化することである。これは、潜在状態の胚珠から芽が出て花が咲くというとき、芽や花が顕在化したという風に例えることができる。
「発展」の更なる定義は、発展するとき、そのものは潜在状態から顕在状態になりつつも同一のままにとどまり続けるというものである。(3) これはつまり、胚珠から出た芽が花になって、そこについた果実からはまたしても胚珠が生まれるということである。しかし、「精神」における発展の特別な点は、胚珠らとは異なり、潜在状態と顕在状態において、それ(精神)は同一個体にあり続けるという点にある。つまり、俺は発展し自己意識が芽生えたとしても俺という個体であり続けるかが、その一方胚珠が次に胚珠になる際には、最早別個体になっているという差異である。

これの何が特別であるのか。それを語るにはヘーゲルにおける「精神」の発展の定義を明らかにせねばならない。
「他者を自覚するものは他者と同一の存在であり、だからこそはじめて、精神は他者のうちにあっても自己を失うことがない。」(3)
ヘーゲルは、人間精神が発展、つまり顕在化することは他者に同一化することであるという。その真意は、人間が成長する際には、手本となる他者の存在が不可欠であるということである。そして、ヘーゲルが上記で述べているのは、人間精神においても、その発展の際に、表層では他者(別個体)になると言えるが、その実態は他者(同一個体)なのであり、つまり、それによって自己は他者という存在がありつつも、決して失われない自己があることに気がつくことができ、これこそが人間のみに「自己」があることの何よりの証明になるということである。
ヘーゲルのこの画期的自己論は更なる展開を見せる。ヘーゲルは「自己」意識の確立の背景には、「他の否定」を通して自己の絶対的な「個別性」を確保しようとする欲望があると述べている(4)。ヘーゲルは自己の有無、その成り立ち(発展)に加えて、その原因についても、「欲望」であると言及したのである。他者による、自己の承認を目指した欲望、まさしく「承認欲求」である。
SNSと絡めて語られがちなこの厄介な欲望は、SNSがそれを助長させたのかについては定かではないが、それはともかくとして承認欲求自体ははるかヘーゲルの時代より、いや、人間にもし「自己」というものが生まれた瞬間があるとしたなら、その産物として生まれたものであると言える。
自己(精神)の発展の原因が果てなき欲望にあることが明らかになるとき、更なる論理が展開される。
「自己意識」は、他者の関係のなかでは、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、言うなればつねに一種の「自己喪失」の状態にある。そこで、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすれば、「相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る」という態度をとることになる。(5)
ここで言及されているのは、自己の発展前、自己なき動物状態ではなく、自己が成立した後の、しかし中途半端な状態である。つまり、自己の確立そのものには成功しつつも、承認欲求が満たされない、鬱屈した自己の状態である。
ヘーゲルはこの状態からの脱却、すなわち「真」の自己確立のためには、喪失からの覚醒が必要であると述べている。ここにきて急に根性論のような話になってきた。
では、真の自己が確立された時、それは我々に何をもたらすのか。ヘーゲルは自己が他者に承認させたいものの正体を「自由」であると述べている。つまり、真の自己意識の確立とは、自由を得ることにあると読み替えることができる。
「自由とはそこにしかなく、他者に関係しないもの、他者に依存しないものは自由ではありません。」(6)
簡単に言えば、もし世界に自分一人しか存在しないのであれば、それは一見して彼は自由であるということが言えそうだが、しかし、その時、一体「何から」自由であるのかと問うこともできる。つまり、世界に一人だけの彼は何からも自由ではないのであり、したがってそこには「自由」が成り立たないのである。
真の自己意識の確立、すなわち自由への欲望、承認欲求、この成立には他者の存在が不可欠である。
さて、ヘーゲルの壮大な「自己論」は江藤淳における「成熟」論と重ね合わせることができる。
「「成熟」するとは、喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの「悪」をひきうけることである。実はそこにしか母に拒まれ、母の崩壊を体験したものが「自由」を回復する道はない。」(7)
江藤は、子供が「成熟」するとき、それは自身を守ってくれていた母を「喪失」し、そこから1人立つときであると言う。しかしながら、この「喪失」には母を見捨てたというある種の罪悪感を伴うことが不可欠であるという。それは、自身を愛してくれた両親を故郷に残して発つ時に多かれ少なかれ生じてくる罪悪感のようなものである。江藤はここで、「真」の自己確立=自由のためには、喪失を受け入れ、そこから立ち直ること(覚醒)が必要であると述べている。そして言わずもがな、立ち直るには他者からの承認が不可欠である。
ヘーゲルの提起した自己論、欲望論、そして自由論はいつしか自明のこととなり、後世へと引き継がれたと言えよう。
次に、キルケゴールが登場する。
ヘーゲルから40年余りを経てこの世に生を受けたキルケゴールにおいても、彼の代表書である「死に至る病」(8)において、彼流の自己論を展開している。
キルケゴールは、自己というものを固有な魂や精神ではなく、aとbからなる関係(シーソー)、それも「関係項の相互関係の仕方のそれ自身に対する関係の仕方に応じて関係そのものにいろいろな不均衡な状態が生じうるような、動的なはたらきとしての関係」(9)と捉えた。
例として、自由と必然という関係項からなる関係があるとき、絶望する自己は、自由すぎて選べない絶望と、必然(自由のない)からくる絶望をシーソーのように揺れ動き、そのときの、そのシーソー的関係そのものを「自己」と捉えたのである。これも、反デカルト的或いは、自己を関係項を揺れ動く関係という、他者(外部存在)を前提として存在しうるものと捉えた点で、ある種ヘーゲルを引き継いだ論理として捉えることができる。
ヘーゲルから40年強→キルケゴール→30年強、ついにニーチェが爆誕する。彼もまた、冒頭に述べたように「自己」の有無について、反デカルト的趨勢を引き継いだものとして捉えることができよう。しかし、ニーチェはヘーゲルにおいて未だ自明視されていた、失われることない自己に揺さぶりをかけた。それは以下の一文から読み取ることができる。
「あの「われは思う」は、私が私の現下の状態を、私が私において知る他の状態と比較して確定する、ということを前提にしているのである。このように現下の状態は他の時・所の「知識」と遡って関係づけられるから、それは私にとってとにかく直接的な確実性をもたない。」(10)
これは、ヘーゲルが自己の確立(精神の発展)に当たっては、他者(同一個体)、つまり、自己が他者になるが、それでも個体が変わらないために、自己は失われることがないと、つまり、「個体の同一性」に注目していたのに対して、ニーチェは個体の同一性ではなく、「思考」そのものに注目しているという視点の変化の現れである。とはいえ、この揺さぶりが限界に達し、新たなる局面を迎えるのは少し先の話である。
さて、ニーチェの代名詞である「力への意志」は誇り高き自立心、現代の文脈では、「意識高い系」と呼ばれる人達に見られる特性の一部と読むことができる代物である。また、そもそもとして本能的意志、生そのもの、生きる上での根源的エネルギーであり、そして、弱肉強食、ある意味での他者への侵害、搾取、抑圧の原因でもある(11)。

これを持って、先に述べた、ヘーゲルの自己論、すなわちその原因としての、「他の否定」を通した自己の絶対的な「個別性」を確保しようする欲望(承認欲求)と接続することができる。
つまり、「力への意志」はニーチェがヘーゲルの自己論の背景にある欲望論(承認欲求)に注目して、発展させたものであると読むことができよう。
さて、ニーチェに端を発したヘーゲル哲学への揺さぶり、これが頂点に達して、ヘーゲル自己論、すなわち他者への同一化による精神発展論(他者(同一個体)になり、失われない自己を自覚する)を覆す存在が20世紀初頭、爆誕する。
ジャック・ラカンの登場である。
ラカンは、鏡像段階理論という形で、自己論を展開した。これは、幼児期の子供はそれまで自らの身体を統一体だとは思っておらず、 鏡を見て初めてそれを認識するというものである。(12)
これの意味するところは、人間は鏡に映った自らの像に自らを「同一化」することで自らを認識、つまり自己を確立しているということである。(12) この際に幼児は「勝ち誇ったような大喜びのサイン」(13)を見せることから、「自己」の確立は本質的に人間の快楽と結びついているとラカンは述べている。この点については、先刻から何度も述べている他者による、自己の承認を目指した欲望、そしてその達成の現れであると言えよう。
しかし、ラカンにおいて最もクリティカルで重要な主張は、自己は、鏡に映った自らという、自らとは別の物を通して自らの身体を認識(自己を確立)した時点で消滅してしまうというものである。(12)
先述しているように、ヘーゲルは自己の確立(人間精神の発展)とは、他者(同一個体)、つまり、自己が他者になることであるが、それでも個体が変わらないために、自己は失われることがないと主張した。
一方で、ラカンは、ニーチェと同様、本質を個体の同一性とは別のところに求めた。それは、ラカンによる鏡像段階理論の更なる発展が明らかにする。曰く、鏡像段階理論は一つの例えでしかなく、人間が何かを思考する時、その何かを考える材料は全て前提となる言語、知識、他者の考えの元に成り立っているのであるから、思考するということは「言語世界」に身を委ねることと同義であり、そこを通してでしか自らは存在し得ない。(12)(14)
つまり、ラカンにとって本質は個体ではなく、思考の前提となる言語、知識にあった。ニーチェによる揺さぶりは実を結び、これをもってデカルトに端を発した自己、主体存在論は完膚なきまでに崩壊したのである。
❷真理の認識
冒頭に述べたニーチェによるカント論において語られているのは、カントがデカルトの自己肯定論を否定したということだけではない。最後の一言は、カントの残した偉大な功績、そしてその偉大性ゆえにこれもまた、後に西洋哲学史を大いに轟かせることになる言明である。
主体からして主体は証明されえない、客体もまた証明されえない(1)
客体の不可証明性、そして「真理」の有無論の始まりである。カントに端を発した、「認識論」について、ニーチェは以下のように述べている。
「「いかにして<先天的>綜合判断は可能であるか」というカントの問いを、「何故にかような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。」(15)
ニーチェはカントが主張した、ある種の客観的認識の存在を否定した。その理由として、「あの「われは思う」は、私が私の現下の状態を、私が私において知る他の状態と比較して確定する、ということを前提にしているのである。このように現下の状態は他の時・所の「知識」と遡って関係づけられるから、それは私にとってとにかく直接的な確実性をもたない。」(10)と述べている。
これは、ニーチェの自己(主体)の否定がそれ故に客観認識(真理)の否定に繋がるという主張のこれ以上ないクリティカルな記述である。
ニーチェによってこき下ろされたカントの認識論、これは19世紀も半ばを超えて、偶然同年に生誕した二人の哲学者によって発展していく。
フッサールの主張は以下の通りである。
主観-客観からなる従来の認識論をとっぱらい、認識を、客観には一致せず、対象確信に一致するものと考える。つまり、その赤い物体がリンゴに客観的に的中していることは証明できないが、代わりに赤いリンゴがあるという確信を作りあげることはできる。(16)そして、個々人の確信は、共有されて世界確信=客観になる。(17)
プラグマティズムの申し子デューイは、真理探求の元になる記号が、特定の言語や文化を前提としたものである以上、真に普遍ではないとして、「真理」は保証つきの言明可能性に過ぎないと主張した。(18)
どちらも、真理・客観的認識は不可能であるとしたニーチェ(反カント)を引き継ぎ、フッサールはその転換(対象確信論)、デューイは補填(保証つき言明可能性)したのである。
❸モダニティ
自己の有無、そして認識論は一旦の区切りを迎えたわけだが、「自己」に関する話題は尽きることがない。
農民-貴族的な身分制度が崩れ、産業化と民主主義社会の到来した近代において、「社会」は人々を自由にした。そこから時をさらに進めた現代は、「モダニティ」社会(社会変動の規模とペースの圧倒的な拡大加速を特徴とする(19))と呼ばれ、今や自由=自らの選択機会は生まれついての権利というよりも、生きる上での必須スキルとなっている。しかしながら、精神内部における「自由」はヘーゲル哲学において真の自己意識の確立を意味しており、それは、喪失からの覚醒という達成困難な試練を乗り越えた最終目標として描かれている。この「真の自己意識の確立」はいつしか「自己アイデンティティ」に言い換えられ、これの創出・維持をめぐる議論が活発に交わされているが、それはそのまま精神内部における自由の達成困難さを証明している。いくら社会制度的に自由というものがお膳立てされようが、真の自己意識の確立=自己アイデンティティ創出が困難であるという事実は揺らぐことがない。この精神と社会の「自由」に対する立ち位置・価値観のズレの増大は「モダニティ」において顕著になり、それはそのまま人々が絶え間なく感じる「不安」として表出している。
❹ルッキズム
「自己アイデンティティ」をめぐる「不安」は、いくつかの現代社会に特徴的な問題に関連している。
特に若年層において、「自己アイデンティティ」創出は強く「身体」へと関わり、この価値観のアップデートと加速の問題はしばしば「ルッキズム」として取り沙汰されている。
これについては、ギデンズの「自己アイデンティティ」と「身体」に関わる議論が極めて示唆的である。
ギデンズは「自己アイデンティティ」は、「信頼」を前提として成り立つものであると述べている(20)。また、信頼構築の原点として挙げられているのは、幼少期における、養育者からの愛情に満ちた関心である。この基本的関心を通して、子の「基本的信頼」は発達する(20)。
信頼は当然のことながら他者によって達成される。それは承認とも言い換えることができる。
「能力ある行為者は、他の行為者から能力ある行為者であるとつねにみなされる行為者である。そのような人は身体のコントロールの失策を避けなければならない。万一、そのようなことが起きたとしても、「問題」はないことを身振りや間投詞によって他者に知らせなければならない」(21)
要するに、「自己アイデンティティ」創出=他者からの信頼=承認の源は「身体」にあるとギデンズは語っているのである。ラカンの鏡像段階理論しかり、人間精神の自己創出過程において、身体は重要な役割を果たしている。
そうであるからして、モダニティにおける社会変動の加速は、「自己アイデンティティ」創出の重要性の高まりという接点をもって、身体と分かち難く結びつき、結果、「ルッキズム」的様相へとつながるのである。
整形、脱毛、ホワイトニング、ダイエット、筋トレ、骨格診断、メンズコスメ、日傘、パック、BMI、SPF、パーソナルカラー…
そうであるならば、「ルッキズム」を執拗に批判する向きに対しては、これが自己アイデンティティ創出(他者からの信頼と承認)のためのプロセスであるということを念頭において、幾分か冷静な議論を行う必要があると言うことができる。
❺大衆と排外主義
モダニティにおける人々、即ち我々はある文脈においては「大衆」と言い換えられることがある。大衆については、「承認欲求」の発展版としての「力への意志」(弱肉強食、「意識高い系」)を信奉するニーチェによって、非難の的にされている。
「万人向きの書物は常に悪臭を放つ書物である。民衆が飲み食いするところでは、崇敬するところでさえも、常に息が詰まるものだ。」(22)
大衆を取り巻く様々な問題については、特にオルテガ「大衆の反逆」(23)によって明らかにされているが、ニーチェ、更にはラカンと共通してその「排外主義的傾向」について触れずにおくことはできない。
ラカンは人々が「不安」、自らの深層の恐れを認めることができない場合に、その原因を外部に求め、それに「迫害」されているという妄想症状に至ることがあるとして、これを「パラノイア的認識」と位置付けている。(24)
つまりは、自己アイデンティティに絡んだ、人々の慢性的不安を特徴とするモダニティにおいては、排外主義的傾向が環境として用意されているのである。
加えて、大衆社会制度の根幹とも言える「民主主義」もまた、排外主義的傾向に繋がるような欠陥を抱えていると古来から指摘されてきた。
オルテガは対話による相互理解が根本的に困難なものであるとして、よって2世紀も前から理想とされてきた「万人に向かって」(urbi et orbi)話すなどというのはもってのほかであり、それは結局、誰に対しても話さないに等しいとして、「書物」を念頭にこれを激しく批判した(25)。
そうであれば、それは自ずと統治における適切な規模の議論へと結びつく。事実、ルソーの時代から民主主義についてはある一定の「規模」が、それを担保する上での条件であると指摘されている。例えば、ロバート・ノージックの主張するリバタニアニズムに基づく国家体制は、最低限の権限(自己所有権の保護)のみを有する最小国家が多様に存在するというもの(26)であるが、ここにおける「最小」の意味は、その権利の矮小さに加えて、規模そのものの最小さも含んでいる。
制度論としては、カール・シュミットの友敵理論も無視することができない。彼曰く、政治の本質は道徳が物事を善と悪に区別し、美的感覚が対象をそれと醜たる感覚に分類するように、人々を敵と味方に区別するところにある(27)。更には、政治的敵の条件とは、他人であることのみにあり、テストの点数の良し悪しと運動神経の有無が重ならないように、政治における敵味方と道徳における善悪には何らの共通もない。敵は悪である必要はなく、他人であること、それだけが唯一絶対の条件である。これは、その根本では、「他の否定」を通した自己の絶対的な「個別性」を確保しようする欲望(承認欲求)に関連しているのかもしれない。
結論として、大衆=モダニティ=民主主義社会は「精神的」に不安に覆われており、かつ、「社会的」に相当に厳しい規模的上限が設置されており、かつ「両儀的」に「他人」であることを唯一絶対条件として「敵」とみなす傾向があるという意味で、極めて容易に「排外主義的」傾向に結びつく危険性を孕んでいると言える。
昨今高まっている、日本国内における外国人への排外主義的言説に対して、私は様々な事情を抱え、不安に怯えながらも「未来」を希望して日本にやってきた彼等を「他人」として排除することに断固として反対する。
❻Twitter
これまで、モダニティにおける自己アイデンティティ創出からくる必然的不安がもたらす課題(過剰なルッキズムと排外主義)を指摘してきた。最後に、現代においてこれらの最前線かつ最大の温床として君臨するTwitterについて語りたい。
Twitterはモダニティが要請する真の自己意識の確立=自己アイデンティティ創出、すなわち「承認欲求」を満たす場として機能し、ここには日夜大衆(万人)が集結している。大衆の集結は、人々に過剰な一種の「自己喪失」をもたらし、不安をより増大させ、結果としてルッキズムを助長し、更には適切な規模を優に超えてしまい、危険な排外主義を跋扈させている。何より、Twitterは、オルテガの2世紀前から理想とされてきた「万人に向かって」(urbi et orbi)話すことを、完全に実現した理想郷であり、それが故に万人に対する対話(ツイート)による混乱と対立、誹謗中傷、炎上、デマ・陰謀論の蠱毒と化している。
この憂慮すべき状況を加味すれば、Twitterの規制は必ずしも非現実的な選択肢とは言えないと私は考えている。そこには、我々の権利と自由を脅かすという大きな懸念が付きまとうが、しかしながら私は多少大袈裟に言って、Twitterの規制は世界の破綻を防ぐためには急務であると考えている。
❼まとめ
議論が様々に展開してきた。
とにもかくにも、まず、西洋哲学史における確かな道筋が浮かび上がってきた。
自己論:デカルト→カント→ヘーゲル→ニーチェ→キルケゴール→ラカン
認識論:カント→ニーチェ→フッサール&デューイ
そして、「自己」は現代社会の様々な課題の背後にいつも佇んでいる。
モダニティ、ルッキズム、大衆、排外主義、Twitter
これら議論の更なる展開について私は線を辿り、そして引き続ける。
(1) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p99
(2) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店
(3) ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p52
(4)竹田青嗣(2010)「超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」」講談社p59
(5) 竹田青嗣(2010)「超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」」講談社p63
(6) ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p54
(7) 江藤淳(1993)「成熟と喪失」講談社p32
(8) キルケゴール(1996)(訳:柳田啓三郎)「死にいたる病」筑摩書房
(9)キルケゴール(1996)(訳:柳田啓三郎)「死にいたる病」筑摩書房p264
(10) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p36
(11) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p306
(12)宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品社p21
(13) ビチェ=ベンヴェヌート/ロジャー・ケネディ(1994)(訳:小出浩之/若園明彦)「ラカンの仕事」青土社p 60
(14) ビチェ=ベンヴェヌート/ロジャー・ケネディ(1994)(訳:小出浩之/若園明彦)「ラカンの仕事」青土社p 66
(15) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店 p29
(16) 竹田青嗣(2012)「超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』」講談社p208
(17) 竹田青嗣(2012)「超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』」講談社p204
(18)伊藤邦武(2016)「プラグマティズム入門」筑摩書房p106
(19) アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房p33
(20) アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房p66
(21) アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房p96
(22) ニーチェ(1970)「善悪の彼岸」(訳:木場深定)岩波書店p64
(23) オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店
(24) ビチェ=ベンヴェヌート/ロジャー・ケネディ(1994)(訳:小出浩之/若園明彦)「ラカンの仕事」青土社p49
(25)オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店p13
(26)木澤佐登志(2019)「ニック・ランドと新反動主義」星海社p64
(27)カール・シュミット(2022)(訳:権左武志)「政治的なものの概念」p120