・平等
・政治
・事後性
・責任
Twitter、、、ここは一体何だ。日々何気ない気持ちで訪れ、笑い傷つき、呆れてそっと去る。しかし、私はそう間を空けずに、気づけばまたここにいる。この不可思議な「電脳世界」では日々、数えきれない炎上、ムーブメント、政治行動、政治的不祥事、性的犯罪、詐欺、広告、趣味的な繋がり、誹謗中傷、デマゴーグが繰り広げられている。オルテガ・イ・ガセットのかの有名な「大衆の反逆」を読むと、大衆の反逆なるものの多くが、このTwitter上で巻き起こっていることと類似していることに気付かされる。当然のことながら、大衆の反逆が書かれた1930年当時にTwitterが念頭に置かれていたはずはない。つまりは、この奇妙な数々の一致は、Twitterというものがこの日本においてある種「大衆」なるものの実情を浮かび上がらせていることを意味している。
「少なくとも現在までのヨーロッパ史上、庶民が物事についての「思想」を持っていると言じたことなど一度もなかったのだ。」(1)
オルテガは大衆が史上初めて現れた時代にあって、初めて人々は知識人の創造的行為に肯定あるいは否定するということ以上の行動に、つまり、自ら思想を創造する行動に打って出始めたのだと述べている。それは例えば、「政治家の「思想」に対して自分のそれを対決させよう」(1)などということである。しかし、彼はここでいう「思想」は本来の意味ではないと述べている。(1)何故なら、これはTwitterにおける「思想」的なものがどういったものを指しているかについて考えるとよくわかるが、大衆における思想とは、その元となる考え、文化に対する最低限の尊厳、想像力が欠如しており、また、その成立に不可欠な論理、真実性を担保するための規範など頭の片隅にもなく、ひたすら無責任な言いがかり、妄言、デマに過ぎないからである。
「スペインの知的文化の貧しさ、つまり知性の規律正しい養成と実践の少ないことは、知識が多いか少ないかではなく、話したり書いたりする人たちが通常示す、真実に向き合うための用心や注意が常に久如しているところに現われている」(2)
はて、Twitterにおける有象無象のいわゆるフォロワーの少ない人々、彼等が大衆であり、彼等の愚かな挙動(文章の引用ではなく、YouTubeの対談なのかテレビの会見なのか知らないが動画の一部分を切り抜いて意気揚々と何かの証左として貼り付けるなど)をエセ思想、規範なき愚行と呼ぶことはできるやもしれない。では、一定のフォロワー数を持って、上記の有象無象たちに影響を与える人々、いわゆる「インフルエンサー」と呼ばれる人々の一挙手一投足こそが真の思想足り得るのか。これについて、またしてもオルテガは興味深いことを述べている。
「マコーレーをして「あらゆる世紀にわたって、人間本性の最も卑劣な例は、扇動者の中に見出される」と叫ばしめた。」(3)
「扇動者の本質的な扇動性はその精神の内部にある。彼が操作する理念、つまり彼自身が創造したのではなく、真の創造者から受け入れただけの理念に対する無責任な態度に根ざしている。」(3)
「真の創造者から受け入れただけの理念に対する無責任な態度」がこれほど頭に浮かぶことが他にあるだろうか。Twitterでしばしば目につく謎の大量フォロワー数を抱えた人々を一度よく見てみると良い。彼等が一体、自分の確固たる意思を持って「創造」に携わっているのか、それとも根拠のない汚い言葉を並べ立てて特定の政治家や団体を貶め、その一方で無批判に権力者を持ち上げたり、かと思えばコロっと意見を変えて当然のことながらそれについて筋の通った説明などするはずもない、、、そんな連中に過ぎないのか。後者の煽動者が跋扈し、多大な影響力を持ってしまっているのがTwitterであり、大衆社会なのである。
私は以前、「責任」について語っているが、そこではまさにTwitterに端を発する、無責任な大衆による事件を例に挙げている。
財務省の前で職員に対し罵詈雑言を浴びせる動画がSNSで拡散され、それに対して財務省の中に日本国籍を持つ者はいないなどという常軌を逸したコメントが付される様からは、「責任」というものの片鱗も感じさせない個人達の集団による暴走以外の何も感じることができない。
2025年3月ごろのTwitterを象徴する出来事が財務省デモだとすれば、現在、2025年10月においてTwitter上で大きな話題を呼んでいるのは何を隠そう「クマ問題」である。もちろん、Twitter云々ではなく、現実としてクマはかつてない大胆さを持って人間界に出没しており、「人間という恐ろしい生物」という概念がクマから忘れ去られるという歴史の転換点を全くもって軽視すべきでないが、それにしても目に余るのは人々の極めて無責任な根性それである。「このクマの大量出没は喫緊の課題であることは間違いなく、一刻も早い対処が必要だ」一体誰が対処するのか?「寝ている政治家を向かわせれば良い」「役所は何故早く対応しないんだ」「これは大変なことです!!市民の安全と暮らしを守るという大前提を行政は担保できていない」もちろん、この現代日本において、法的にも実行力としてもこの前代未聞の危機的状況を解決できるアクターがあるとすれば、それは間違いなく役所であり、警察、自衛隊という行政、国家権力であることは間違いない。私はその事自体を問いたいわけではない。問題は、人々の甘えた幼児のようなその根性、危険や不快は親(行政)が解決してくれるものだと信じて疑わないその堕落した根性にある。
「十九世紀の文明は、平均人が苦悩することなく、有り余った手段のみを受け入れて豊かな世界に住みつくことを可能にするという性格を持っている。平均人は素晴らしい道具、ありがたい薬品、先々を考えてくれる国家、快適さを保障してくれる種々の権利に囲まれているのだ。ところが彼はそうした薬品や道具を作り出す難しさを知らないし、未来のためにそれらの製造を確保する困難を知らない。国家組織の不安定なことに気づかず、自身の内部にほとんど義務感さえ持っていない。こうした不均衡が彼を偽りの存在とし、生の実体そのものとの接触を失わせることによって、人間の根源において彼を堕落させる。もちろんこれは絶対的な危険であり、根本的な問題性である。」(4)
もうこれ以上はたくさんかもしれない。だが、昨今高まる排外主義についても、オルテガの示唆に富んだ言説を紹介することに大きな意味があるだろう。
「自由主義とは!!このことは今日ぜひ思い起こしていただきたい 最高の寛大さなのだ。それは多数者が少数者に与える権利、したがって地球上でこれまで鳴り響いた最も崇高な叫びだ。それは、敵とも、いやか弱い敵とも共生するという決意を宜言している。人類がかくまで美しい、かくまで逆説的な、かくまで優雅な、かくまで曲芸的な、かくまで反自然のものに到達できるとは、にわかには肩じられないことだった。」(5)
「ほとんどすべての国々において同質の大衆が社会的権力の上に重くのしかかり、すべての反対集団を踏みにじり、無きものにしている。大衆はその密度とおびただしい数を見れば誰の目にも明らかだが、自分と違う者との共存は願っていない。自分でないものを死ぬほど憎んでいるのだ。」(5)
排外主義の愚かさについては、それこそTwitter上でありとあらゆる真っ当な主張がなされていることから、改めて私から何か言うまでもない。ただ他にいくつか言えることはあるわけで、例えばこれからわずか十数年後、彼のあった欧州は排外主義の局地とも言える事態(ホロコースト)に直面するのであり、同時代のカール・シュミットの友敵理論(政治の本質は人々を敵と味方に区別するところにある。また、この時の「政治的敵」とは他者であり、他人にとどまる、つまり、他人であること、それだけが敵たる条件であるというもの)(6)と共に、ある種未来を予測していたと言うことができる。だとすれば、これらの言説がピタリと当てはまる昨今の状況を踏まえて、少なくとも、リベラル的思想者が少々熱がこもって大袈裟になろうとも「昨今の日本の言論状況は、ナチス前夜を彷彿とさせる!!」と叫んでいることに対して冷笑を浴びせるなどということはできないはずである。
また、視点は変わるが、以前私はこの排外主義或いは陰謀論的思考について、ラカンのパラノイア的認識を紹介した。パラノイア的認識とは、自らの深層の恐れを認めることができないために、その原因を外部に求め、それに「迫害」されているという妄想へと転化してしまうというものである(7)。これを持って、日本社会において自らが不遇な立場にあると感じている者が、そのことを認めることができず、その原因を外部(外国人)に求め、自分は外国人に迫害されているという妄想に捉われているのだと言うこともできよう。しかし、だとすれば、極めて残念なことに、大衆一般がパラノイア的認識の特性を持っているということになる。これについては、確かに正しい知識(思想)や調べ方・ルール(規範)があれば認識が歪むこともないわけで、逆に言えばこれらの欠如した状態とパラノイア的認識は見事に特徴が一致しているとも言える。
無思想、無責任、無規範、堕落、排外的。Twitter=大衆について、ネガティブな批評が頂点に達した時、更なる議論の幕が開く。火蓋を切るのは以下のオルテガの言説である。
「言葉はこれまでの濫用によって、その権威を失墜してしまった。ここで言う濫用とは、他の多くの場合と同じく、配慮なしに、つまり道具としての限界について意識なしに使用することである。ほとんど二世紀も前から、話すとは「万人に向かって」(urbi et orbi)話すことだと言じられてきたが、これは結局、誰に対しても話さないに等しい。私はこうした話し方を嫌悪するし、自分が誰に対して話しているか具体的に知らないときには胸の痛みさえ覚える。(8)」
この言説からおよそ95年が経った現在、「万人に向かって」(urbi et orbi)話すことを理想とする言説が過去になったとは言い難い。むしろ、テレビからインターネット、SNSへの移り変わりという歴史的局面は、「発信者」を多様にすることによって、万人に向かって話す人々の絶対数を増やし、万人に向かって話すことを理想から現実、前提へと変えてきた。
だが、「Twitter」における惨状を見るにつけ、いよいよ先述のオルテガの言葉は真実性を帯びてくる。オルテガはこの発言の前段で、そもそも話すこと、対話による相互理解などというものは根本的に困難であると述べている。(8)だとすれば、つまり対一の対話すら難しいのであれば、万人に対する対話(ツイート)が混乱や対立、誹謗中傷、炎上、陰謀論を招いている現状を容易に理解することができる。
この言説は、民主主義そのものにもある程度当てはめることができよう。なぜなら、いざとなった時に「対話」をすることができない関係・距離・規模にある対等な者達が、自分たちは合意を形成することができていると思い込むことは困難なはずだからである。民主主義における理想的な規模に関する議論はかねてより存在する。「木澤佐登志「ニック・ランドと新反動主義」」この加速主義などに代表される、現行の民主主義に対する反発から生まれた思想を取り上げた書において、ロバート・ノージックのリバタニアリズムからくる理想的な国家体制についての論(9)が展開されている。彼の主張は、最低限の権限(自己所有権の保護)のみを有する最小国家が多様に存在するというものであり、そこで人々はルールの異なる国家を自ら選択し、その国民となることができるというものである。この論はいささか過激が過ぎるとは言えども、1億2千万という数字がどう考えても適切な規模の範囲を逸脱しているだろうということについては、広く合意が取れることだろう。
「対話」の観点からTwitterにはその構造そのものに問題があることが浮き彫りになった。また、民主主義についてはその規模に視点をやることでまだ一筋の希望があるような気がする。だが、果たして本当にそうなのか。我々の民主主義に希望などまだあるのだろうか。詰まるところ、民主主義は、チャーチルの述べた「最悪の政治形態だが、しかし、他のどれよりも最良である」で納得のできる段階を超えてしまったように思える。分断の米国、次回大統領選において極右が最有力候補とされているフランス、四十数年ぶりに戒厳令の出された韓国、そして日本。英国やドイツについても、もしここ最近の両国を安定した政治状況にあると答えた者がいたとすれば、彼は世間知らずかもしくは現実逃避をしているのだろう。
現行の民主主義、つまり最重要アクターを政治家でも官僚でも貴族でもない、「大衆」に置くというやり方は限界を迎えているのかもしれないと思うことがある。何故なら、不思議に思わないか。思想がなく、最低限の尊厳も想像力も規範も持ち合わせない、そのことを認識もせず恥じもせずに無責任に権利だけを主張する、そんな代物に一体今の私は持って生まれた「主権者」である!!と自信満々に宣言させることに果たして妥当性はあるのだろうか。これについては大いに考える余地がある。これは極めて根本的な問題である。
「かつては特別な資質を持たない個人、つまり普遍一般の人間個人の主権に関する理念や法的理想だったものが、いまや平均人を構成する一つの心理状態へと移行したのだ。気をつけていただきたいのは、かつては理想であったものが現実の要素となったときには、もはや皮肉なことに理想ではないということなのである。」(10)
さて、上記の過激な論点については、いずれまた語るとして、最後に民主主義制度の内側が大衆の問題であるならば、外側にあたる「法」について語ろう。オルテガはこれについて以下のように述べている。「すこし強情な読者のように感じるかもしれないが、次のような主題の本を読みたいとの私の欲望だけは表明しておきたい。すなわちそれは物理学以外の領域、つまり生のその他すべての領域にかかわるイギリスのニュートン主義、というテーマの本である。」(11)このセリフは諸々の論に付け足された欧州文学に特有の比喩であり、もしこの一文だけでオルテガの望んだ「法」のあり方を理解できたとすればそれは類稀な洞察力と思想の持ち主であることの証左であろうが、ともかくここで重要なのはニュートンが代表しているのは彼の功績でもある「運動」の法則だということである。ニュートンは物理に関する運動の法則に言及した。そして、オルテガが望んでいるのは物理学以外の全領域に関わるニュートン主義である。つまり、オルテガの基本的な信条は諸行無常にあると言える。そして、その諸行無常の世にあって、静止を美徳とする大胆不敵な異端者、それが「法」である。つまり、オルテガは本著で何度も賞賛の対象として挙げている英国の法がそうであるように、法もまた、柔軟性を持つべきであると主張しているのである。
とかく世の中のありとあらゆる動きの流れが激しいモダニティ社会(現代社会における社会変動の規模とペースの圧倒的拡大加速の特徴をアンソニー・ギデンズが評したもの。また、この時の加速は矢印が一方向へ向かう単純な物ではなく、「再帰性」により、継続的に修正を受けながら営まれる。(12)(13))において、「法」というものの硬直性はしばしば議論の的となる。我が日本国における最たる例はなんといっても日本国憲法だろう。はっきり言って、焼け野原、ラジオ放送、カラーテレビ、オリンピック、安保闘争、新幹線、公害、アニメ文化、校内暴力、オイルショック、ジャパンアズナンバーワン、バブル崩壊、インターネット、冷戦終結、北朝鮮核開発、任天堂、デフレ経済、中国台頭、スマートフォン、Twitter、働き方改革、Amazon、YouTube、コロナ、MAGA、チャットGPT、ロシアウクライナ戦争、首相暗殺、排外主義、と激動に次ぐ激動を歩んできたこの間に1文字の内容も変わらずそこにある憲法は、もはや不変の美徳などと崇め立てて良い段階にはなく、多少過激に言って死に体であると言って差し支えない代物であると思える。
これについて考える時、ラカン研究者である宇波彰著「ラカン的思考」(14)において特筆されている「事後性」の概念もまた、大いに参考になる。これは、形であるシニフィアンが先に来て、内容・意味であるシニフィエが事後的に効果として作られるという理論であり、例として人は教会に行き、神に祈るというシニフィアンを通じて信仰心(シニフィエ)を抱くということが挙げられる。(15)オルテガ、ギデンズ(再帰性)、そしてラカン(事後性)、彼等によって「運動」、つまり物事の非不変性が明らかになるにつけて、「法」とそれの専門家集団でもある行政組織の「前例主義」の危険性が改めて浮き彫りになる。当然のことながら法が法であるためには、口約束に勝る信用が不可欠であるからして、つまり、どちらかに偏ることなく、バランスが重要であることはいうまでもない。そして、現状日本国憲法についてはまるで「運動」の対象外であるかのように考えられている節があり、その実消費期限はとうの昔に切れて腐り果てているのである。
大衆、民主主義、そして法。およそ100年前に語られた多くの言説がものの見事に現代のTwitter、排外主義、財務省解体、クマ問題、日本国憲法に当てはまることについて人々は今一度この意味をよくよく考えた方が良い。つまりは、我々の進歩というものの、、、いや、そんなことよりもそこのお前!無責任なモラルもなく、幼稚に甘えたお前!100年も前に指摘され馬鹿にされていることを知りもせずのうのうと愚かな大衆に甘んじているお前!。いや、恐らくだが、もしここまで読み進めた風変わりな物好きがいたとすれば、きっとその者が愚かな大衆ではないことぐらいは断言しても良いだろう。なので、せめて我々だけでも冷静であろうではないか。そしてまた、Twitterへと戻っていく…
(1) オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店p 147
(2)前掲p150
(3)前掲p46
(4)前掲p188
(5)前掲p155
(6) カール・シュミット(2022)(訳:権左武志)「政治的なものの概念」岩波書店p120
(7) ビチェ=ベンヴェヌート/ロジャー・ケネディ(1994)(訳:小出浩之/若園明彦)「ラカンの仕事」青土社p49
(8)オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店p13
(9) 木澤佐登志(2019)「ニック・ランドと新反動主義」星海社p64
(10) オルテガ・イ・ガセット(2020)(訳:佐々木孝)「大衆の反逆」岩波書店p81
(11) 前掲p348
(12) アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房p33
(13) アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房p40
(14) 宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品者
(15) 宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品者 p74