・本と文学
・日常
いつも、いつもだ!!懸垂マシンの直下に置いたゲーミングチェアにのけ反って、部屋を貫通する窓を開け放ち、通り風と扇風機を浴びながら読書に勤しむ。哲学史講義を読んだ時は確実にそうだった。あれは夏季休暇の頃だ。「絶望しながらキルケゴール」や「異次元の共生社会政策」をあげた頃がまさにそれだ。絶望キルケは本自体を読むのにも感想を書くのにも時間がかかったので、おかしなことになっている。書き出しは三連休の終わり、恐らく7月21日の海の日を指しているのに、書き終わりは夏季休暇(7月26日〜)に突入している。
今読み終わった、「トニオ・クレエゲル」(1)は私に改めて私のどうしようもなさ、要するに訳者「実吉晴夫」さんによるあとがきに言わせれば、
「己れの生命のエネルギーのすべてを賭けるほどのディオニュソス的陶酔を覚えることのないままに日々を送っている若い人…..またそうした醒めた青春を過ごしつつ、いつしか「成人」となってしまった人間」(2)であることを思い出させてくれた。
だが、だからと言って24歳にもなって女っ気のからっきしもない堕落した日々を送り、いつもいつも窓辺で本を読んでは「充実」した気になっているようなどうしようもなさを騒ぎ立て煽り立て居心地の悪くむず痒い、不安、後悔、懺悔…もうたくさんだ!そういう悪感情を抱かせるようなことはなく、むしろ、心を同にする友人のような作品である。
その点においては、春樹とは違うかもしれない。
『秋が近づくと、いつも鼠の心は少しづつ落ち込んでいった。〔…..〕「多分取り残されるような気がするんだよ。その気持ちはわかるね。」 とジェイは言った。「そう?」「みんな何処かに行っちまうんだよ。学校へ帰ったり、職場に戻ったりさ。あんただってそうだろ?」』(3)
彼の語る孤独や時の流れに対する憂いは、明らかな真実性を帯びているがそれは、だからこそ、私の胸に深く突き刺さり、静動で言えば、動へと追いやるのである。春樹が厳しく突き放す父であるとすれば、マンは寄り添い抱擁しそして引き止める母である。そんな気を抱いた。
トニオは詩や文学を必要とするのは、不器用な身体と微妙な魂を持った人たち、悩み、憧れ、哀れな人ばかりだと語る。その一方で、健全で無垢な人々は決してそこには惹かれないのであると。(4)
また、トニオはハンスという、金髪の並外れて美しい肩が広く腰が細く、陰のない鋭く物を見る鋼色の眼を持った同級(5)に強い憧れを抱き恋をする。或いは、彼のように公明に快活に素朴に正則に秩序正しく、神とも世とも和らぎながら人となって、無邪気な幸福な人たちから愛せられるような人生を送ることを羨望している(6)。
私がこういう哀れな性分で読書を愛しているのもそういうことなのだろう。だが、結局のところこういう類の問答に対しての答えはとうに出ている。つまり、健全で無垢なことの何が幸せなものか、キルケゴールに言わせれば動物や世間の空気を読むことでしか生きられない人間、つまり、絶望することができるだけの「自己」を持ち合わせていない人々こそ「絶望」に値するものであるということである。
もっと言えば、これもあとがきで語られていることであるが、「今日、この世界のどこを探したら、ほんとうに「金髪碧眼の、晴れやかに潑刺とした、幸福で愛想のいい凡庸な」ハンス・ハンゼンやインゲボルグ・ホルムに出会うことができるであろうか。」ということである。
諸々の事情(インターネット等)により読書の追求者こそ減少したが、一方で健全で無垢な人々ももはや居らず、人々はみな「絶望」にひとしおに襲われ付き纏われ、寄り添って生きている、そんな世の中なのである。
(1)トーマス・マン(2003)「トニオ・クレエゲル」(訳:実吉捷郎)岩波書店
(2)同書p128
(3)村上春樹(1979)「風の歌を聴け」講談社p110
(4) トーマス・マン(2003)「トニオ・クレエゲル」(訳:実吉捷郎)岩波書店p66
(5) トーマス・マン(2003)「トニオ・クレエゲル」(訳:実吉捷郎)岩波書店p9
(6) トーマス・マン(2003)「トニオ・クレエゲル」(訳:実吉捷郎)岩波書店p114