モダニティと筋トレ


自己

社会

村上春樹作品、そして芥川賞受賞の羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」、両作では男性主人公が日常を成立させ、自己肯定感を創出させ、満足感を得るための手段としてしばしば「筋トレ」が登場する。

「僕はリュックをかついで電車に乗る。高松駅に出て、それからバスでいつもの体育館に行く。ロッカールームでトレーニング用のウェアに着替え、MDウォークマンでプリンスを聴きながらサーキットをまわる。久しぶりだったので、身体は最初のうち悲鳴をあげる。しかし僕はなんとかそれをこなしていく。悲鳴をあげ、負荷を拒否することで、身体は正常な反応をしている。僕がやらなくちゃならないのは、その反応をなだめすかし、組み伏せていくことだ。僕は「リトル・レッド・コーヴェット』を聴きながら、息を吸いこみ、止め、吐きだす。息を吸いこみ、止め、吐きだす。それを規則正しく繰りかえす。筋肉を順番に限界の少し手前まで痛めつけていく。」(1)

私は「筋トレ」が日常の成立・自己肯定感・満足感を創出することが常識であり真理であると確信して疑っておらず、今日この無味乾燥な一日を壊す刺激であると共に、老いへの抵抗、美への挑戦に資する取り組みとして受け入れている。

この真理の理論的裏付けがアンソニー・ギデンズ「モダニティと自己アイデンティティ」(2)である。そう、日常の成立・自己肯定感・満足感の創出とは、すなわち自己アイデンティティの創出である。我々はしばしばそれは内面(誰を愛しどのような職業を選ぶか)に関わるものであり、「身体」を二次的な物として考えがちである。しかし、「服装」「髪型」或いは何を食すかについて考える時、「ダイエット」が頭をよぎらない現代人は珍しいだろう。ルッキズムはしばしば批判的な文脈で用いられるが、いくらそれを否定しようとも人々の美の追求、そのための資本の投入、あらゆる努力と節制、これらの隆盛は留まるところを知らない。整形、脱毛、ホワイトニング、ダイエット、筋トレ、骨格診断、メンズコスメ、日傘、パック、BMI、SPF、パーソナルカラー…

私の「自己アイデンティティ」「ライフスタイル」においても、哲学がどれだけ幅を利かせ読書が広い位置を占め、或いは投資に励み音楽に没頭したとしても、「身体的」なそれはいつ何時も圧倒的影響力を保っている。

これについて紐解く時、やはりその道標となるのはラカンの「鏡像段階理論」である。

鏡像段階理論とは、幼児期の子供はそれまで自らの身体を統一体だとは思っておらず、 鏡を見て初めてそれを認識するというものである。(3)これの意味するところは、人間は鏡に映った自らの像に自らを「同一化」することで自らを認識、つまり自己を確立しているということである。(4)

要するに、「自己アイデンティティ」の原点は精神や心ではなく「身体」にある。だからこそ、自己アイデンティティを語るにつけて、身体は決して二次的なものではあり得ないのである。

少し話を根本に戻すが、ギデンズによれば「自己アイデンティティ」は「信頼」を前提として成り立つ。(5)これは自然に理解のできることである。「自己アイデンティティ」を持たざる人は不安に駆られ、自己の存在を信頼することができないだろう。或いは、より本質的に言えば先述の「鏡像段階理論」において、鏡に映った自らという、自らとは別の物、つまり他者を通して自らの身体を認識(自己を確立)するというプロセスが明らかにするように、自己の確立には他者の存在を要することから、他者との間に信頼関係を構築できない場合に、自己アイデンティティの創出に支障をきたすということは容易に想像がつく。

なお、この他者との間の信頼関係の原点としてギデンズが言及しているのは、幼少期における、養育者からの愛情に満ちた関心である。この関心を通して、子の「基本的信頼」は発達する(6)。信頼は他者によって達成され、自己アイデンティティは信頼によって成り立つ。他者→信頼→自己アイデンティティ。ここにおいて自己の確立は他者の存在に結びつくのである。

さて、自己アイデンティティにとって信頼が源であり、自己アイデンティティ創出にはしばしば身体が関わる。この時、以下のようなことが言える。

「能力ある行為者は、他の行為者から能力ある行為者であるとつねにみなされる行為者である。そのような人は身体のコントロールの失策を避けなければならない。万一、そのようなことが起きたとしても、「問題」はないことを身振りや間投詞によって他者に知らせなければならない」(7)

つまり、我々は自らが信頼に値する人間であることを自らの身体によって他者に示し、他者からの信頼を得ることで自己アイデンティティを維持しているのである。筋トレとダイエットとブルベはそれぞれ、我々が他者の信頼を得ようとする時の懸命の努力の結晶なのである。

だが、それにおいても、現代は明らかに平安の農民や昭和のサラリーマン達に比してルッキズムが「加速」している。ルッキズムにとどまらない、社会変動の規模とペースの圧倒的な拡大加速は現代社会の特徴である。この加速する社会をギデンズは「モダニティ」と評した。(8) また、この加速は矢印が一方向へ向かう単純な物ではない。何故なら、モダニティを特徴づける重要な要素の一つは「再帰性」である。その意味は、社会活動および自然との物質的関係の大半の側面が、新たな情報や知識に照らして継続的に修正を受けやすいということである。(9)

つまり、修正は加速し、価値観は目まぐるしく変容する。ファッションやグルメは流行り廃り、或いは回帰する。ネットのバズりも炎上もミームも極限のスピードでもてはやされ忘れられていく。その只中において、当然のことながら個人の美意識もまた、加速と変動から逃れることはできない。私が日々電車の中で楽天マガジンのサブスクを未漁り、トレンドのファッションを追い求めることも、筋トレに勤しむことも、この加速するルッキズム=モダニティを生きることの最低条件なのである。

「身体が近代的再帰性の一部になってきている」(10)

信頼を得るため、加速に追いつくため、それを甘んじて受け入れようとも、ルッキズムが喚起する焦燥、煽り増大する「不安」を肯定するなどできようか。我々はこれを受難するしかないのか。これについて語る時、そもそも不安が自由の可能性であることについて触れなければならない。(11)未知の領域に挑戦しようとする時、それは自由の元での可能性に満ち溢れている一方、そこには常に不安がつきまとう。そして、モダニティとは、常に未知の領域への挑戦である。そこは常に加速する変容と再帰性(修正)に晒されている。そうであるならば、我々には不安に苛まれ立ち止まったり後退する選択肢はない。不安を引き受けて我々は「挑戦」をしなければならない。

我々の選択、そして不安は「ルッキズム」にとどまらない。2025年現在、トランプ大統領が自由と民主主義を揺るがし、ロシアは帝国主義的な領土拡張に勤しみ、国内に目を向けても少子化はとどまる気配がなく、それの特効薬としての移民に対するヘイトは過去類をみない盛り上がりを見せている。年金や社会保険は将来も維持可能なのか、円安や物価高は暮らしを維持することのできる状態にとどまるのか、ありとあらゆる局面で我々は「不安」に晒されている。より個人的なことを言えばリスキリング、転職、結婚、投資、iPhoneのアップデート、、、我々は常に挑戦に迫られなおかつ不安に苦しむ「一億総不安社会」を生きている。そしてこれこそがモダニティの本質である。

筋トレ(或いはルッキズム)の肯定が、最終的にはより大文字の「生き方」へと繋がった。

だが、これこそ今日、私が語りたい全てである。今日、過剰な競争は批判され、そこから距離を置くことが推奨されている。それは当然のことながら否定できることではない。しかし、その一方でモダニティとルッキズムに必死に食らいつき疲労を感じながらもリスクに身を委ね、挑戦と変革を求め続ける人々に対しても、「その意気だ」と私はエールを送りたい。

1 村上春樹(2005)「海辺のカフカ下」新潮社p185

2アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房

3 宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品社21

4 同書p22

5 アンソニー・ギデンズ(2021)「自己アイデンティティとモダニティ」(訳:秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也)筑摩書房p66

6 同書p68

7 同書p96

8 同書p33

9 同書p40

10同書p174

11 同書p83

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