・同一化
私は今まで哲学を学ぶにつけてある重大なことを蔑ろにしてきたことを告白せねばならない。それというのは、「最初の哲学はもっともまずしく、もっとも抽象的」(1)だということ、或いは「哲学の発展ということを考えれば、古代の哲学的教養がいまだ把握するに至っていない概念内容をもちだしてきて、古代哲学にそれがないと非難するようなことは許されない」(2)ということ、そして、「深い明確な概念を所持する今日の精神に、以前の哲学が満足をあたえることはありえない。」(3)ということである。
これは、私がプラトン、ヒューム、ルソーといった名だたる哲学史の名雄達を相手にした時に、その名声と比較した時の驚愕の、新鮮の度合いの相対的少なさを感じ得ないことへの一定の答えを提示していると言えよう。
或いは、我々が哲学について語るときに、ついつい先の時代の理論を後の時代に発展させたという事実を忘れてしまい、先の時代の言葉に後の時代の意味を載せて過大に評価・感心してしまうことへの警告とも捉えることができよう。(認識がもっと発展したときに得られるような満足を、それ以前の哲学に求めるわけにはいかない(4))
ただ、このことはヘーゲルの言う「真理の発展」の当然の帰結であるからして、全くもって過去の哲学を軽視することと同義ではないし、むしろ現存する哲学が過去の哲学から発展していることを踏まえて、より慎重に過去の哲学に向き合うべきであることを表している。
さて、以下については、上記の教訓を身に沁みて感じることとなった出来事であるということができる。
ヘーゲルは「よくわかっていると思われることを研究するのが、哲学の哲学らしいところ」(5)であるという信念のもと、「発展」について解き明かした。
「発展」するとは、そのものが目に見えない潜在状態から、目に見える顕在状態へと変化することを指す。潜在状態の胚珠から芽が出て花が咲くというのは芽や花が顕在化したということである。
また、発展するとき、そのものは潜在状態から顕在状態になりつつも同一のままにとどまり続けるということができる。(6)つまり、胚珠から出た芽が花になって、そこについた果実からはまたしても胚珠が生まれる。発展し、変化しつつも最後には同一のもの(ただし、別の個体)に戻るのである。
では、この理論を精神に置き換えるとどのようなことが言えるだろうか。
精神における発展とは、すなわち理性を自覚するということである。理性の自覚については、植物の発展と根本的に異なる部分がある。それは、理性なき私と、理性を自覚した私とが、植物で言う胚珠とそこから生まれた胚珠とは異なり、同一のもの(同一個体)であるという点である。理性のなかった獣的田中くんに、理性が芽生えたからといってそれで山下くんに変身するわけではない。田中くんはあくまで田中くんなのである。(7)
これの意味するところについてヘーゲルは次のように述べている。
「他者を自覚するものは他者と同一の存在であり、だからこそはじめて、精神は他者のうちにあっても自己を失うことがない。」(7)
私は初めてこの文章を読んだときは、意味がわからなかった。何故なら、「他者を自覚するものは他者と同一の存在」という部分に矛盾を感じたからである。他者(山下くん)を自覚するもの(田中くん)は他者(山下くん)と同一の存在である。全くもって意味不明である。
この戸惑いについては、意味を理解した今でも自然な戸惑いであろうと思える。それは哲学における「他者」という言葉が持つ独特な意味合いについて、それが一般的であるとは言えないからである。
とにかく、当時の私はこの意味のわからなさに絶望し、そっと本を閉じおよそ半年間、本を開くことはなかった。そしてその半年間に様々な思想に触れた。
その中の一つにラカンの鏡像段階理論がある。それというのは、幼児期の子供はそれまで自らの身体を統一体だとは思っておらず、 鏡を見て初めてその事を認識するというものである。そして、鏡に映った自らという、自分ではないものを通して、自らの身体を認識するということは、その時点での、オリジナルな自らの消滅を意味している。自分ではないもの(鏡に映った自ら)を通して、自分が自分であることに気づくのだから、それは自分ではないもの(鏡に映った自ら)に影響されちゃってるんじゃんということである。また、別の言い方をすれば、我々は鏡に映った自らの像に自らを「同一化」することで自らを認識していると言うこともできる。
「自分ではないもの」、この独特な言い回しは何やら「胚珠とは異なり、同一のもの(同一個体)」を彷彿とさせる。とにかく、「自分ではないもの」、これをラカンが他者と呼んだことが重要である。ここに、哲学における「他者」(自分が自分であることに気づくための自分ではないもの)が表す独特の意味が明らかになっていく。
さらに、ラカンの真骨頂は鏡像段階理論はあくまでも一つの例えでしかなく、人が何かを思考する時、その何か、を考える材料は全て前提となる言語、知識、他人の考えの元に成り立っているのであるから、思考するということはすなわち、「言語世界」に身を委ねることと同義であり、そこを通すことででしか、「自ら」は存在することができないと主張した点にある。(8)
ここで言う「言語世界」とは、言い換えれば他者であり、すなわち、人間は他者になることによって、つまり自己(オリジナルな自ら)を失うことででしか理性を獲得し得ないとラカンは言ったのである。
この新鮮で独創的で、私はあくまで私であるという固定概念を覆した素晴らしい思想は、私の脳裏に焼き付いて離れることはなかった。
それと同時に、哲学における「他者」という言葉の持つ、独特な意味合い、自らの認識=自己発見=理性の獲得における他者性の必要性について知ることとなったのである。
「他者を自覚するものは他者と同一の存在であり、だからこそはじめて、精神は他者のうちにあっても自己を失うことがない。」(7)
この経験を経た私にとって、かつて私を混乱に陥れたこの一文は、もはや知識の確認、或いは復習でしかなかった。それと同時に、かってわからなかったことがわかったという、これでしか味わえない多幸感を深く感じたのである。
つまり、他者(他者になった私)を自覚する者が他者と同一の存在であるのはしごく当然のことである。そして、この時の他者とは、精神が発展し、顕在化した状態を指す。そして何より、ラカンの鏡像段階理論、人間は他者になることによって、つまり自己を失うことででしか理性を獲得し得ないという、新鮮で独創的で固定概念を覆した素晴らしい思想が、実はヘーゲルによるものであったという衝撃とそれを知ることができたという嬉しさは大きかった。
さて、私がこの誤った認識について気がついたのは上記の衝撃から数ヶ月経ったつい最近のことである。私は「ヘーゲル」の言葉について、それより後の時代の人である「ラカン」の言葉を通して理解したという事実について、気をつけていなかった。
もっと言えば、「我々が哲学について語るときに、ついつい先の時代の理論を後の時代に発展させたという事実を忘れてしまい、先の時代の言葉に後の時代の意味を載せて過大に評価・感心してしまうこと」をやってしまっていたのである。
「他者を自覚するものは他者と同一の存在であり、だからこそはじめて、精神は他者のうちにあっても自己を失うことがない。」(7)
この一文を紐解くと、人間においては、精神の発展とは、顕在化=「他者」化することであり、つまり自己が「他者」になるということである。更に、このとき他者と自己は同一の存在(同一個体)である。人間は、それによって、つまり、他者という存在があることによって、自己が自己であることを知ることができるとヘーゲルは述べている。
しかし、問題はヘーゲルはそれ以上のことは言っていないということである。それ以上のことというのは、すなわち「他者」化した時点で自己(オリジナルな自ら)が失われるということである。
ヘーゲルは以下のようにも述べている。「自由とはそこにしかなく、他者に関係しないもの、他者に依存しないものは自由ではありません。」(9)
これは、先述の一文とリンクする。
自由という感覚は、他者がいることによって初めて成立する。何故なら、世界に自分一人しか存在しないのであれば、その者は一体何から自由であると言えるのだろう。つまり、自己が自由であること、理性的であることは他者によることで初めて実現することができるとヘーゲルは述べているのである。
そして、この一文もやはり、理性を獲得するには「他者」化することが必要でありつつも、「他者」化した時点で自己(オリジナルな自ら)が失われるということは意味していないどころか、むしろ、最終的に精神は他者のうちにあっても自己を失うことがないというのがヘーゲルの見解なのである。
二人における「他者」の意味合いも異なる。ヘーゲルの言う「他者」化するとは、すなわち発展することである。つまり、胚珠が花になるのと同様に人間が発展し、変化したその姿を「他者」という言葉で表現しているに過ぎない。ヘーゲルのいう「他者」は、親や友達を指しているわけではない。一方で、ラカンはこの発展の具体的な方法について、そこに厳密な「他者」の介入は免れず、よって人間は「他者」を通して文字通り「他者」になるのであって、その時点でそれを自覚する「自己」が「他者」化しているということを述べているのである。
この壮大?な解釈の変化が哲学の醍醐味であると同時に、ヘーゲルの警告を身に沁みて感じたあらましである。
最後に、ここでヘーゲルが言いたかった本題の方、つまり「発展」について、この理念を他のことに当てはめて実証してみたいと思う。
現代で「発展」という言葉の持つイメージはいくつかあるが、その一つとして都市の「発展」がある。さて、発展した都市における顕在状態とは、立ち並ぶビル群とそこにひしめき合う多くの人間である。では、これが潜在している場合、どういう状態を指すか。それは、ビルを建てられるだけの土地、未だ顕在化していない、高層化していない単なる家屋かもしれないし駐車場かもしれないが、そういう土地が存在することである。更に、その田舎、そして周囲に都会に憧れる多くの若者や仕事を求める人々がいることである。ここに、発展することがそのものが目に見えない潜在状態(田舎と周囲の沢山の人々)から、目に見える顕在状態(ビル群とそこに住む沢山の人々)へと変化することが的を射ているということを言うことができよう。
また、田舎が都市に変化し、そこにかつての姿を見ることが出来なくとも、それは同一のまま(同一の場所)にとどまり続けていると言うこともできよう。
(1) ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p76
(2)同書p78(3)同書p82(4)同書p81
(5)同書p50(6)同書p52(7)同書p53
(8) 宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品者p21
(9)同書p54