1973年のピンボール(僕に惹かれて)


村上春樹

「何ヶ月も何年も、僕はただ一人深いプールの底に座り続けていた。温かい水と柔らかな光、そして沈黙。そして、沈黙……。」(1)

「ひとつの季節がドアを開けて去り、もうひとつの季節がもうひとつのドアからやってくる。人は慌ててドアを開け、おい、ちょっと待ってくれ、ひとつだけ言い忘れたことがあるんだ、と叫ぶ。でもそこにはもう誰もいない。」(2)

「風の歌を聴け」から相も変わらず「僕」も「鼠」も時の流れに自覚的で未来を恐れている。

↓風の歌を聴けより

「時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐しい事に、それは真実なのだ。」(3)

『秋が近づくと、いつも鼠の心は少しづつ落ち込んでいった。〔…..〕「多分取り残されるような気がするんだよ。その気持ちはわかるね。」 とジェイは言った。「そう?」「みんな何処かに行っちまうんだよ。学校へ帰ったり、職場に戻ったりさ。あんただってそうだろ?」』(4)

しかし、本作の特異な点は、度々にして彼らの孤独や時の流れに対する憂いが現実(私のそれ)を超えているということである。

それは例えば、「二十五年間生きてきて、何ひとつ身につけなかったような気がする」(5)や、「半年ばかりを僕は暗い穴の中で過ごしたような気がする」(6)などに現れている。

これがもたらす帰結は明らかで、私を含む孤独を抱える読者を安心させるのである。これで何となく我々が村上春樹の描く物語に惹かれる理由がわかる気がする。

「三度目に出会ったのはその四日後で、場所は市内にある室内プールだった。鼠は彼女を車でアパートまで送り、そして寝た。何故そんな風になってしまったのかは鼠にもわからなかった。どちらが誘ったのかさえ覚えてはいない。空気の流れのようなものだったのだろう。」(7)

はっきり言って、上記のような展開には全くもって共感しかねるし、「僕」や「鼠」は別の世界の住人のように思えてならない。しかし、それにもかかわらず彼らが孤独を感じ、未来を憂いているということが、尚のこと私を安心させ、この世界に深く共感するのである。

他にも前作になかった変化がある。それは、異常なまでのナイーブさに対して、虚をつく以下のようなやり取りが見られることだ。

終盤、ひょんなことからつんぼになりかけた「僕」は、病院で自身の耳穴が生まれつき曲がっていることを知る。結局、デカい耳くそは回収され、つんぼ状態は解消したにもかかわらず「僕」は看護師に対して耳穴が曲がっていることについての精神的な影響の有無を問う。それに対して看護師は無慈悲にも「ない」と言い放つ。

これは側から見ると極めて滑稽である。しかし、それまで深く「僕」に共感していた悩みがちな読者達にとっては、自分たちの悩みが軽快に笑い飛ばされたかのように感じられる。しかも、それでいて読者達は笑い飛ばされたのはあくまで「僕」だと考えているために、不快になることもなく、結果的に爽やかな安心感を得ることができるのである。

さて、孤独といえば、本作には「僕」のモノローグの中でドストエフスキーが登場する。(8)ドストエフスキーといえば、地下室人である。地下室人もまた、どうしようもない孤独を抱えており、深刻なことに「僕」や「鼠」よりも大分年齢を重ねている。私には地下室人が「僕」らが変わらないままに時を経た姿に映るのである。実際、「僕」は自身の1970年代はドストエフスキーの予言の実践であるという風に語っている。しかし、前後の文章からはそれが地下室人を指しているとは断言できない。ドストエフスキー的なメタファーはもっとたくさんあり得るだろうから。これについては、いずれドストエフスキーの大勢を読破した時に何らかの判断を下せることだろう。

「ピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。」(9)

上記は作中に登場する架空小説の一節である。一文前では、孤独な消耗(ピンボール・ゲーム)をする一方でプルーストの小説を読む者もいるだろうと述べられている。なにぶん私もどちらかと言えばそういう意識が強いので、例えばツムツムやスマブラのようなものを好んでやることはしない。もちろん、これは単なるエゴに過ぎず、比べて読書がどれほど大層なものなのかと問われると答えに窮する。だが、私が言いたいのは、こちら側だと思われた「僕」がピンボールに熱中したという事実についてである。

何故、「僕」はピンボールに熱中することになったのか。これについては、未来を恐れるならば、果たして永劫性を肯定するべきか、それとも否定するべきかということについて考えてみることで答えが出る気がする(或いは、そこに整合性のある論理など存在し得るのか)。私としては、一時間ごとに齢を取っていくことに自覚的でそれを恐れているのであれば、永劫性(リプレイ)に時間を費やすべきではないと考える。だが、これはあくまで「べき論」に過ぎない。未来を恐れる者(有効的な時間を過ごしたい者)にとって永劫性を感じさせるものは敵であるが、永劫性それ自体は、恐れから解放してくれる救済なので、永劫性を感じさせるものに魅力を感じたとしてもそれは仕方のないことなのである。(海辺のカフカは過去と未来を恐れるあまり、永劫性を求める人々の物語でもある)。そういう意味で、「僕」がある種の永劫性を感じさせてくれるピンボール・マシーンに惹かれたと考えることもできよう。

「それでも人は変りつづける。変ることにどんな意味があるのか俺にはずっとわからなかった」(10)

私にも人が変わっていく意味はよくわからない。いや、そこに普遍的な意味などというものはなく、ただ世界が変わっていくのに合わせて、私にも変わるべき瞬間が訪れるということに過ぎないのだろう。

 実際に「鼠」は街を去り、双子も「僕」の元を去る。前作では、「鼠」は周囲の人々が変わっていき、自分が取り残されているように感じてしまうと嘆いていたので、そういう意味では進歩があったと言えるのかもしれない。

本作の「僕」は24、「鼠」は25、そして私も間も無く24年目を迎える。良い年になりますように。

(1)村上春樹(1980)「1973年のピンボール」講談社p36

(2)同書p42

(3)村上春樹(1979)「風の歌を聴け」講談社p100

(4)同書p110

(5)村上春樹(1980)「1973年のピンボール」講談社p96

(6)同書p118

(7)同書p72

(8)同書p40

(9)同書p30

(10)同書p143


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