怪物(映画)(監督:是枝裕和)の感想


映画

子供

怪物の正体はゲイだった。現代社会に生きる大人にとっては、今やゲイという存在は極めて身近なものである。

しかし、子供たちにとってはずいぶん違って感じられているのではないだろうか。
子供は自分が他とは違うこと(ゲイであること)を怖れながらも、それが易々と家族に言えることではないことを何となく把握しているのである。

一方、本作で怪物を体現しているのは彼らの性だけではない。そう、怪物の正体は「子供」である。これは私が常日頃から抱いている思いでもある。

子供と大人には多くの違いがあるが、子供を怪物たらしめる要素は「純粋」だ。
純粋のイメージと言えば、純粋な心、純粋な水、純粋な血統と、大抵はいいことして扱われる。

純粋さを忘れた大人たちはそれを体現する子どもを時に尊び、羨ましく思う。
実際、子供は尊いことに違いはないのだが、純粋さは決して良いだけのものではない。

例えば、いつも私が純粋と聞いて思い浮かべるのは魔人ブウ(純粋)である。

デブの方(善)と共に、両者とも純粋であることは確かだろう。
しかし、ドラゴンボールでは純粋を体現する彼らがラスボスとして登場し、結果的に人類を滅ぼしかけ、地球を消滅させてしまう。

純粋な子供は、純粋であるが故に、時に大人を戦慄させるほどの事態を巻き起こす。

私は、虐めを無くそうなんてのは土台無理な話で、子供の心を忘却してしまった大人たちの妄言でしかないと考えている。

我々が、いじめが悪いということを真に理解できるのは、人生においてたくさんの人を傷つけ、傷つけられ、目撃しながら良識というものを身につけることができたからに他ならない。

子供と接する時はそのことを念頭に置いておいた方が良いのである。

無限に幸せや感動を感受できる一方で、底なしの悪意を心から楽しめるのが、子供という存在であり、だから彼らは怪物なのである。

さて、こういったことを感じさせてくれるという意味で「怪物」はもう十分に素晴らしいのであるが、本作の魅力を語るにはこれらでは全く不十分である。

というのも、本作のもう一つの魅力は、凄まじい構成にある。

本作は同様のシーンを異なる視点から三幕で描く構成だが、瑛太がやはり良いやつだったことが判明する二幕も捨て難い一方、湊と依里の真実が明らかになる三幕は圧巻である。

例えば、湊の大暴れはいじめっ子らの視線を依里から逸らすためだったことが判明し、(勿論、これだけなはずはない。まあ、咄嗟に体が動いたとか、そういう類の話だ)驚かせてくれるのだが、これが連続するのが三幕である。

中でも、圧倒的な伏線回収とそれに伴う悲しさ辛さに加えて、自らも無垢だったあの頃の記憶を思い出させてくれるのが、湊が早織の運転する車から飛び降りるシーンだ。

直前、湊は「僕はお父さんみたいにはなれない」と発言するのだが、これは、湊なりの早織への告白だったのだろう。私にも思い起こせば幼い時分に、どうしても伝えたいが素直に言い出せない、どうにも不安でもどかしい記憶がある。

そんな湊に対しての早織の何気ない「結婚して家庭を持つまで」という発言は、湊を車内飛び降りさせるには十分すぎる出来事なのである。

その後湊はMRIに入る直前に苦悩の表情を浮かべ、帰り道で早織に結果を見たのかどうか尋ねる。

MRIでゲイかどうかがわかるはずがないのに、それを恐れる湊の気持ちを想像すると、胸が張り裂けそうになる。彼らは彼らなりに本気で苦しみ、葛藤し、悩んでいるのだ。

,

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です