動物農場(作:ジョージ・オーウェル訳:山形浩生)の感想


政治

忘却

本書がソ連、そしてスターリン体制を批判して作られたという経緯を知らぬまま読んだ私には、 動物農場の七戒が共産主義を模したものであるなどとはいささかも感じられなかった。なるほど、人間は敵であり、動物は友。 彼らの革命の過程を見れば当然の理である。他にも、殺人(獣)の禁止と平等主義。これも理想そのものである。その間にある飲酒、ベッド、 衣服の禁止は彼らがいわゆる動物である限り、必要なものとは言いにくいのだから、気にも留めなかった。 ただし、よく考えてみれば、物質的消費的、過度な贅沢を嫌うこれらの戒律は社会主義の理念そのものである。p18「リボンは服と見なされるべきであり、 服は人間のしるしだ。動物はすべて裸でなくてはならない」
人間的なものを否定した動物農場の七戒と、資本主義的なものを否定した社会主義、理由はどうあれ、 重要なのは結局人間の欲望はそれらを否定し得ないという事実だろう。それを嫌というほど知っている身からすれば、本書終盤に豚共が衣服を 身に纏い鞭を振るいながら後ろ足で立って闊歩する描写に、その事実ほどの異常さは感じないのだ。

本作には色々の人間社会の比喩が散りばめられているが、中でも示唆に富むのは低位動物(すなわち大衆)の異常なまでの記憶力の無さである。 p54「特に反乱以前の状態がどんなものだったか、もはやあまりはっきり思い出せないのでなおさらです。そうはいっても…もっと食べ物が欲しいと思う日も あったのでした。」これは、現代社会にも共通することである。1年前の今頃話題になっていた出来事はもはや人々にとって全くの過去になっており、 自らが一体なぜそのニュースに熱心に、躍起になっていたのかを思い出せない。例えば本感想を綴っているちょうど1年前、2023年5月の話題を調べてみると 「G7広島開催」「新型コロナ5類移行」「ジャニーズ事務所性加害で謝罪」と並ぶ。どれも今考えるとなかなかのインパクトのある出来事である。 内政とは裏腹に評価が高いことで有名な岸田外交が、ゼレンスキー来日を実現させ、本当に一瞬だけ上昇した支持率、その一方で西側先進国とウクライナ側に 重きを置いた姿勢への批判。コロナと、それを恐れる人々からの批判を恐れ、あるゆる社会活動、人々の交流が停滞し特に若者が多くを奪われた数年。 過剰とも言える人々の批判の裏に、芸能界と言う一般大衆にとっては光り輝く舞台で幸せを享受してきた男たちへの嫉妬を感じ得なかった一連の騒動、 どれもこれも一人一人の思想、発言が連なった結果、歴史の歩む方向を決定づけた出来事であるに違いない。
私は、それらの歴史の方向づけに関与した者たち が、何らかの社会的責任を取るべきだとは思わない。また、そもそも責任を取るべき、つまり何らかの負の側面がどちらか一方の立場にあるとも断言しない。 しかし、それぞれが己の思想、発言を反省することに意義があると思う。それで、自身の発言に一貫性がなかったのだとしたら、一体その理由は何なのか、 空気に乗っかってしまった結果だったのか、それとも無知ゆえの愚言だったのか、その背景を探ることに意義があると思う。本作においても、 豚は当然のこととして、他農場の人間、羊、果ては馬に至るまでもその発言と行動には一貫性がない。唯一、作中を通してp72「空腹、労苦、幻滅こそは、 生の不変の法則なのだよ」と言い続けたのは老ベンジャミンただ一人である。

なに、思想の一貫性とは、考え方を変えず頑固でいろということではない。事実、ベンジャミンにおいてもp68「ベンジャミンが…声高に絶叫していたの で、みんな驚愕しました。これまでベンジャミンが興奮したところなんか一度も見たことがありません」と己のイメージを覆す行動をしている。 この行動には、彼が最も尊敬し、体を労り、よく行動を共にしていたボクサーの生命が危ぶまれていたという確固とした理由がある。つまり、思想の一貫とは、 自らの思想に一本筋の通った意味を持つということなのである。思想が変化したのであれば、その背景にどんな出来事があったのか、どういう経緯で現在の 思想に行き着いたのか、これを解き明かすのべきなのである。自らの思想の流れを解明することこそが思想の一貫性を実現する。

本作における衝撃は、実は本編ではなくオーウェルの序文案(報道の自由)にあるのかもしれない。p80「イギリスにおける著作の検閲に関する不気味な 事実とは、それがおおむね自発的に行われているということだ。」p83「左翼からのソヴィエト政権批判はかなり苦労しないと聞いてもらえなかった。 反ロシア文献は大量に登場したけれど、そのほとんどは保守派の視点からのもので、露骨に不正直だったり、古びていたり、卑しい動機に動かされたもの だったりした。」これらを聞いて、当時のイギリス左翼の行動に、全くの新鮮さを感じるものは恐らくいないのではないだろうか。
p83「穏やかならないのは、ソ連とその政策となると、別に自分たちの意見を偽れという直接の圧力をまったく受けていないリベラル派の作家やジャーナリスト からは、知的な批判はおろか、多くの場合には単なる正直ささえも期待できないということなのだ。」
我々の現実における何が、ソ連に代替されるのかは置いておくとして、私が思うのは、リベラルな言説はリベラルであるからこそ価値があり、 時として殻に篭りがちな保守のそれをこじ開けるという役割があるということだ。批判を恐れずに言えば、この期に及んで韓国人や中国人を公然と侮辱し、 クルド人や技能実習生、入管に囚われた難民達を国外追放せよと声高に叫ぶ人々を我々は断固として非難しなければならない。 そこで調和と進歩ある道を指し示すのがリベラル思想家達の役割なのだ。だからこそ、そういう責務を負ったリベラル思想家達には自らの思想に一貫性を 持たせる責務も負う。言論の自由を謳いながら、ソビエトの批判を圧殺し、空気を読んだイギリス左翼の歴史を我々は他人事として扱ってはならないのだ。

人間の飽くなき欲望、大衆の一時的な熱狂、忘れっぽさ、思想と発言の一貫性のなさ、リベラルのダブルスタンダードその他、スケープゴート、 友敵理論、粛清、搾取、データ改竄、果たしてソ連と共産主義、そして戦中イギリスの体たらくを笑う資格が自らにあるのか我々は自分たちの立つ社会を 振り返らなければならない。そこには、もしかすると動物農場の面々も真っ青の下卑た現実が横たわっているかもしれないからだ。

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