カントと時間(海辺のカフカから)


カントは、いや、カントに限らずとも歴史に残る哲学者たちの思想は膨大かつ複雑である。よって一度に全てを理解しようなどとは思わないことが 哲学に向き合い続けるコツのように思う。つまり、興味を持った、理解できるオリジナルな道を辿っていけば良いのである。
そういう意味で、今回は直近に読んだ海辺のカフカのテーマにもなっていた「時間」に関するカントの哲学を語りたい。

まず、それにあたって私が海辺のカフカについて書いた以下の文章を引用する。

「頭がよくても悪くても、字が書けても書けなくても、影がちゃんとあってもなくても、みんなそのときが参りますれば、順々に死にます。」(1) 本作の大きなテーマの一つは過去と未来、すなわち時間である。我々は得てして、時間は必然的に流れていると考えがちである。 しかし、それは 時間が流れていることを意識しているからそう感じるだけであって、猫たちのように時間の流れを感じない者にとっては時間は 不存在のものなのである。 つまり、時間はそれほど大事な問題ではない。そして、そんな猫たちと会話できる存在としてナカタが登場する。そんな彼もまた、一貫して時間という 概念を持たない。 時間がないから未来もない。未来がないから死を恐れる必要もない。彼の上記のセリフにはそういう背景がある。

長い引用になってしまったが、上記は海辺のカフカの文章を引用しつつ「時間」の主観性について語っているので、より分かり易い。
そして、カントが提唱したのはまさに、「空間と時間は主観の性質として存在している」(2)ということである。

さて、カントが上記の真理に至ったのは理性批判の実例として、つまり理性が、時間と空間の客観的存在を前提として、無限性と有限性の双方を 証明するというアンチノミーに陥ってしまったことについて批判しつつ、その真理を解明した結果と言える。アンチノミーとはカント用語であるが、 要は二律背反、つまり、自身の定義(世界は有限である)の証明のために対立する定義(世界は無限である)の不可能性を証明するということを双方が やってのけてしまったために生じる矛盾状態を指している。
カントは、この矛盾状態の解決策として、双方の定義の前提条件、つまり世界(時間及び空間)が有限か無限であるために、 世界は客観的に存在しているという点に目を向けて、その誤りを指摘したのである。

さて、カントは続けてさらに多くのことを語っている。 例えば、形而上学的な第一原因にはそもそも経験則が当てはまらないということである。これによって、カントは経験則から来る客観性の仮象 (世界は存在しているように見える)を暴いたのであるが、私は冒頭宣言したように、全てについて一度に理解しようとは思わないので、 今は上記のことは語らないでおく。

(1)村上春樹(2005)「海辺のカフカ上」新潮社p107
(2)石川文康(1995)「カント入門」筑摩書房p86


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