排外主義とジャック・ラカン


同一化

自己

認識

社会

21世紀に産まれていると全く、思想・哲学の現代を気持ちよく理解するのに経なければいけない過程が多すぎる。

プラトンに始まり、ロック、ヒューム、ルソー、カント、ヘーゲル、キルケゴール、マルクス、ニーチェ、フロイト、フッサール、ウェーバー、カフカ、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、ヘッセ、ベンヤミン、ラカン、サルトル、アーレント、クワイン、ロールズ、ドゥルーズ、デリダ、ノージック、トッド、サンスティーン、ピケティ、マルクスガブリエル、、、

入門書だの複数の名著の内一冊しか触れないだの、場合によって飛ばしたりそこまでやっても一体何年後に「今」に追いつくことができるのか定かではない状況の中で、何を血迷ったのか「ジャック・ラカン」に限っては何故か3冊も手元に本がある。もっと言えばフロイトも2冊あるので精神分析への力の入れようがすごい(ハイデガーは一冊、マルクスも一冊、ロックやウェーバーは持ってすらいない)。

何が言いたいかというと、率直に言ってラカンの精神分析は面白い。それまでの古代哲学者たちのそれが、今を生きる知恵を過去からタイムカプセルかの如く届けてくれるというようなものである一方、ラカンの理論はしばしば新鮮さと大胆さに溢れている。

今日詳しくは触れないが(というか、ちんぷんかんぷんで語る資格がない)、「主体」はシニフィアン(まあ、言葉のようなもの?)によって表象されるものであり、そしてシニフィアンは別のシニフィアンを表象するのだから、主体もそれに伴って移動し続ける(1)という、どこかキルケゴールの主体関係論を彷彿とさせる議論や、女性は男性的な性欲を持たず、捉われず、その影には男性的な去勢を免れ、余りある何かを持っている、そしてそういうものの正体を見抜く前にフェミニズム的運動を推し進めることがもしかすると、予想だにしない事態を招いてしまうのではないか、といったような議論(2)がその一例である。

さて、ここからは語れる論点である。

まずは、1年前に「ラカン的思考」(3)にて、ラカン思想に初めて触れた私を魅了して以降、ヘーゲルを読む上でも「核」であり続けた「鏡像段階理論」について一区切りをつけたい。なに、何らか新しい発見をしたというものではない。ただ、参考文献は一つより二つの方がいい。

鏡像段階理論とは、幼児期の子供はそれまで自らの身体を統一体だとは思っておらず、 鏡を見て初めてそれを認識するというものである。

(4)これの意味するところは、人間は鏡に映った自らの像に自らを「同一化」することで自らを認識、つまり自己を確立しているということである。(5) なお、この際に幼児は「勝ち誇ったような大喜びのサイン」(6)を見せることから、「自己」の確立は本質的に人間の快楽と結びついていると言える。

なお、さらに重要なことは、鏡に映った自らという、自らとは別の物を通して自らの身体を認識(自己を確立)した時点で、 「オリジナルな自ら」は消滅してしまうというものである。つまるところ、「我思う、故に我なし」である。(5)

鏡像段階理論は一つの例えでしかなく、人間が何かを思考する時、その何かを考える材料は全て前提となる言語、知識、他者の考えの元に成り立っているのであるから、思考するということは「言語世界」に身を委ねることと同義であり、そこを通してでしか自らは存在し得ないということもできる。(4)(7)

自己を確立するのには他者の存在を要し、そして自己の確立は自己の消滅を意味するというかなり入り組んだ理論である。

続いて、先ほどのフェミニズム御意見と並んで、現在に直結する「パラノイア的認識」について。

パラノイア的認識とは、つまるところ被害妄想であり、陰謀論である。ラカンによればこの認識は自らの深層の恐れを認めることができないために、その原因を外部に求め、それに「迫害」されているという妄想へと転化するというものである(8)。例えば、もしや日本社会において自分は不遇な立場にあり、恵まれていないのではないかという恐れが生じたとして、そのことを認めることができなかった時、その原因を外部(外国人)に求め、自分は外国人に迫害されているという妄想に捉われるといったものである。これはあくまで例えである。ラカンはこのことについて有名な「症例エメ」を通して説明しているのであるが、彼女は最終的に自らを迫害しているという妄想にとらわれたまま、当時有名な女優をナイフで刺している。「置き換えられた目標に対してではあるが攻撃という形で積極的な行動に出た時始めて、彼女は自分の本当の目標は自分自身であるという認識に近付いた。」(8)要するに、気づいた時にはもう遅い。

最後に、ラカンがフロイトの基本的な前提を真理が一般に研究対象に対して相対的なものであると考えていたこと、そして彼がフッサールによる現象学に大きな影響を受けていたことについて。なるほど、ラカンにおいては当時保守的だった精神分析学への徹底的な攻撃や、ある意味独善的とも言える理論も目立つ。しかし、その背景にはフッサール現象学があると聞くと妙に納得のできるものである。

というのも、フッサールが打ち立てたのは、それまでの主観-客観認識論(自然科学的)をとっぱらい、認識は、対象確信に一致する、つまり、その認識が正しいか否かは別として、そう確信したという事実は疑いようがなく、更に、個々人の確信が、共有されることで世界確信=客観になるという、ある意味主観肯定の理論だからである。(9)「主観」的視点が肯定されることで「相対的」視点も成り立つのである。

これが哲学の醍醐味である。時代を超えて思想はつながり、そしてそれは現在と未来を照らす鏡となる(こともある)。

(1)ビチェ=ベンヴェヌート(1994)「ラカンの仕事」青土社p144

(2)同書p235

(3) 宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品社

(4)同書p21

(5)同書p22

(6) ビチェ=ベンヴェヌート(1994)「ラカンの仕事」青土社p60

(7)同書p66

(8)同書p49

(9)竹田青嗣(2012)「超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』」講談社p204

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