・自己
・天邪鬼
3連休が終わる。例によって幾分かの生産性も感じられないままにこれを終えようとしていることによって、私の自己は後悔と反省と更には諦めと弁護の集中砲火に遭い、バトルオブブリテンさながらの様相を見せている。
さて、一方でやっとこさ「死に至る病」を読み終えた。実を言えば、初めて読んだのは半年ほど前に遡るのであるが、その時は序盤こそ訳者「柳田啓三郎」の緻密な解説のおかげで、というよりかむしろこれを主として感動を覚えたわけであるが、キルケゴールそのものについては、「心理学的論述」(1)を疎ましく感じてしまい、そこで読むことを断念していた。そしてこの度本腰を入れて読み始め、今日読了するに至ったわけである。
さて、さしあたり「この度」が一体どれほどの期間であったかということについて述べておきたい。「死に至る病」を再開し、「自己」を関係と捉えることについて述べられた、彼の絶望論に入る手前の箇所(序盤中の序盤)に感動し、有頂天になってツイートをしたのは6月28日のことである(2)。そして本日は7月21日、つまり、私はおよそ3週間に渡ってこの男に付き合い続けたというわけである。
多少なりとも哲学書なるものに触れたことのある方になら共感していただけるであろうが、こういった類の書物を、小説のようにさらりと読むことは基本的には不可能だと言って良い。とはいえ、とはいえ、哲学的な言い回しの理解について極めて適性のない、はっきり言って愚鈍な頭の持ち主であるとか、或いは読書の時間を捻出し、捻出しやっと30分とかいう多忙な(見習いたくない)スケジュールを生きていない限り、3週間という期間が不適切であると言うのもまた確かであろう。つまり、この場合に他に「時間のかかった」原因として最も妥当であるのは「乗り気でなかった」というものであり、そして実際そうであった。とはいえ、ヒュームの人性論だとかヘーゲルの入門書だとかについて割合早く読んだ(乗り気だった)と断言できるかといえばそうでないし、実際として私は「哲学」を趣味であると断言することはできるが、それをゲームとか、ドラマと一緒くたにできるものではないということは流石に理解していただけるだろう。まあ、差し当たり「死に至る病」への感触は以上のようなものである。
とはいえ、これで感想をたたむということがどれほど意味のあることか(ないことか)ということについて、私は充分にわかっているつもりである。そもそも私が文章をしたためる最大の理由は、後で読み返すため、つまりその時にしか存在し得ない感情を振り返るためである。そういう意味ではここまでの文章がある種味わい深いものであることは間違いないが、とはいえここまでの情報は「死に至る病は私に合わなかった」というものでしかない。一応「哲学」好きとしては、キルケゴールのそれの自分なりの整理ぐらいはしておきたいものである。「整理」を行う際に自分の理解を文章に書き表すというのはらこのうえなく効果的である。どれだけ頭の中で明快に論理的に整理できていたとしても、それをいざ「文章」として現物化した時のその理解の解像度・深みの向上は段違いなのであり、これには恐らく人間の脳の構造が影響しているに違いない。さて、始めよう。
「絶望」にも種類があるというのが筆者の主張であるが、中でもその度合いが高い、つまりより深い絶望を引き起こすトリガーとなるのが例によって「自己」である。ということでまずは私の過去の文章から各哲学者の「自己」について振り返っておこう。
ヘーゲル(参考:歴史哲学講義の元になった講義は1822年より)
人間精神は、顕在化(他者化)して潜在状態(自己)ではなくなるものの、しかし、それでも両者が同一の存在(同一個体)であり続けることによって、つまり他者がいることに気がつく(自覚する)ことで、自己が自己という存在であることを知ることができ、なおかつ、自己を失わずに済むのである。
ラカンの鏡像段階理論がある。それというのは、幼児期の子供はそれまで自らの身体を統一体だとは思っておらず、 鏡を見て初めてその事を認識するというものである。そして、鏡に映った自らという、自分ではないものを通して、自らの身体を認識するということは、その時点での、オリジナルな自らの消滅を意味している。自分ではないもの(鏡に映った自ら)を通して、自分が自分であることに気づくのだから、それは自分ではないもの(鏡に映った自ら)に影響されちゃってるんじゃんということである。また、別の言い方をすれば、我々は鏡に映った自らの像に自らを「同一化」することで自らを認識していると言うこともできる。「自分ではないもの」、この独特な言い回しは何やら「胚珠とは異なり、同一のもの(同一個体)」を彷彿とさせる。とにかく、「自分ではないもの」、これをラカンが他者と呼んだことが重要である。ここに、哲学における「他者」(自分が自分であることに気づくための自分ではないもの)が表す独特の意味が明らかになっていく。
端的に言えば、人間が「自己」を認識するには他者との関わりが必要だということである。そして私の理解によれば、それ以前(デカルト、ヒューム)から自己に関わる言説はあったものの、その他者性について大っぴらに世に公表したのはヘーゲルの功績である。そして、「死に至る病」の発売年が1849年ということもあり、キルケゴールの自己論はヘーゲルのそれを前提としていると思われる。
それを踏まえると、キルケゴールの言う「関係論」が素直に理解できる。「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との綜合、要するにひとつの綜合である。」(3)
キルケゴールは自己を何か固有な魂とか精神とかではなく、aとbからなる関係(シーソー)、それも「関係項の相互関係の仕方のそれ自身に対する関係の仕方に応じて関係そのものにいろいろな不均衡な状態が生じうるような、動的なはたらきとしての関係」(4)と捉えた。つまり、絶望する自己は固定ではなくシーソーのように揺れ動くということである。例を挙げると、自由と必然という関係項からなる関係があるとして、主題でもある絶望する自己がある時、自由すぎて選べない絶望もあれば、必然(自由のない)の絶望もありうる。この絶望のシーソーのような揺れ動きそのものが「自己」である。
ここからは、先述したようにキルケゴールの「自己」が固定されたそれ自体として存在するというよりかは、関係項という、他者とまではいかないまでも外部存在によって存在しうるという、ヘーゲルに端を発する自己論の延長線上にあるということがわかる。
ちなみに、大分時を遡るが古代ギリシアの哲学者パルメニデスもキルケゴールの発想に近いことを述べている。曰く、二つの要素があり、どちらに比重がかかるかによって認識の違いが生まれる。暖かさが優勢か冷たさが優勢かによって思考が変わるのであると。(5)
7その後、キルケゴールは独特の遠回りをしながら絶望とは何たるかについて語っていくのであるが、そこにおいては今や一般的人類の共通認識が仰々しく語られている。しかし、これは古哲学の宿命である。何故なら今更古哲学に現代人が驚愕したり新発見を得ていたとすれば、それは古哲学が如何にその役割を果たさずに年月を過ごしてきたかということの証明に他ならないからである。ちなみに同様のことをヘーゲルも述べている。ともかく、共通認識について具体的に言えば、「この病にかかりうるという可能性が、人間が動物よりもすぐれている長所なのである。」(6)とか、「絶望の苦悩は、まさに死ぬことができないということ」(実際に死ぬ場合は、それによって苦悩から解放されることができるから)(7)、極め付けは「世間の目から見ると、冒険をおかすことは危険なことである、それはなぜであろうか?冒険すると、失うことがあるからである。そこで、冒険をしないのが、賢明なことになる。けれども、冒険をしない場合には、そのときこそ、冒険をすればどれほど多くのものを失うにしてもそれだけはほとんど失うことがないはずのものを、どんなことがあってもけっして失うはずのないものを、おそろしいほどやすやすと失いかねないのである」(8)である。彼は一貫して、動物や世間の空気を読むことでしか生きられない人間、つまり、絶望することができるだけの「自己」を持ち合わせていない人々の「絶望」を指摘している。これについては、現代においても意見の分かれるところであろう。ただ、我々が悩む命題が過去から連綿と受け継がれてきたと知ることができれば、より堂々と胸を張って悩むことができるような気もする。

(9)
さて、もう一点、特筆すべきは悪魔の絶望についてである。これは、キルケゴールの提唱するあらゆる絶望の最上位のもので、曰く「誰か他人に助けを求めるなどということは、断じて、どんなことがあろうとも、彼の欲しないところである。助けを求めるくらいなら、むしろ彼は、あらゆる地獄の苦しみをなめても、甘んじて、自己自身であろうと欲するのである。」(10)という状態の絶望である。詰まるところ、被害妄想のナルシストの妄想癖の拗らせ男子といったところである。ちなみに、キルケゴールはこれを一般的に「男子」の絶望と述べているが、特に異論はない。大体にしてこのように故障ロボットのような思考回路に陥るのは得てして男性なのである。残念なことだ。そして、真に重要なのは、この詳細な心理状況を明らかにできていることから察せられるように、彼自身においても、このような素質を、潤沢な悪魔の絶望を抱えているという点である。それは、100ページにも及ぶ(本編は243ページ)柳田啓三郎による解説の中で、キルケゴールの本書の執筆に至る経緯と共に時折紹介される彼自身による日記の中にしばしば顔をのぞかせる。まあ、とにかく小金持ちであるし、別れた女性に未練たらたら、恩師?や知り合いからはことごとく邪険に扱われそれに対する恨み節をツラツラと述べていることからは、キリスト教の信奉者、更には本書そのものから想像される理屈屋という一般的な「キルケゴール」とは全く正反対のイメージが想起されるのである。そして、上記描写から関連して思い浮かべずにはおられない者が一名、何と言ってもドストエフスキー「地下室の手記」である。
「俺は連中全員を、朦朧とした目で無遠慮に見回した。ところが連中は、俺のことなどまるきり忘れてしまっていた。」 「ただ、なるべく連中の誰も見ないようにしていた。一人、できるだけ孤高の姿勢を貫いていたのだが、実は、連中のほうから 先に話しかけてくれないかと、それをじりじりしながら待っていたのだ。」 「俺は…壁沿いに、食卓から暖炉へ、また暖炉から食卓へと歩いていた。俺は、お前たちなんぞなしでも、やって行けるんだ、 というところを全身全霊で見せつけてやろうとしていたのだ。…俺はじっと我慢しながら、連中の目の前を8時から11時まで…歩き通しに 歩いた。…この3時間のうちに、三度大汗をかいては、三度その汗が引いた。」(11)
本書が死に至る病を参考にして描かれたのかどうかということについては、全くもって不明であるが、この、現在社会においてしばしば忘れられがちな重症の精神的病について、両書に触れて震え上がった心当たりのある者達は、今一度自分の置かれた状況を客観視する良いきっかけになることであろう。ということで、以上である。暑い夏はまだ続く。夏季休暇でまたとない本を読む機会が到来している今、いつまでもキルケゴールに囚われている訳にもいかないので、これにて、キルケゴールの大まかな整理?残念なことに整理にはならなかったが、所感について終わる。
(1)キルケゴール(1996)(訳:柳田啓三郎)「死にいたる病」筑摩書房p429
(2)タケル・カフカ[@myaramyaraadmit](2025.6.28)[キルケゴール♪自己とは関係がそれ自身に一定の態度を取ること、意識すること、決断。更に、意識して不釣り合いな関係から均衡の取れた関係へと変化していくこと。つまり、自己が自己になるその生成の過程。]https://x.com/myaramyaraadmit/status/1938974584210170299?s=46
(3) 同書p27
(4)同書p264
(5)ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p342
(6)キルケゴール(1996)(訳:柳田啓三郎)「死にいたる病」筑摩書房p30
(7)同書p36
(8)同書p67
(9)山口つばさ(2018)ブルーピリオドvol.2講談社[あとがき]
(10) キルケゴール(1996)(訳:柳田啓三郎)「死にいたる病」筑摩書房p133
(11)ドストエフスキー(2007)(訳:安岡治子)「地下室の手記」光文社p150