拡張現実の時代


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そもそも私が読書とか思想とか、そして東浩紀を知る遠因となった存在が宮台真司である訳だが(「ニック・ランドと新反動主義(思想書)(著:木澤佐登志)の感想」でチラッと触れてるよ)、私が宮台の著書として手に取ったのが「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」(1)である。本書では第一章「時代」の冒頭から、戦後日本社会の文化・精神的側面による時代区分の変遷についてとうとうと語られている(これぞ、社会学!!)。それというのは、戦後〜60年代にかけて人々が現行秩序(戦後デモクラシー)を信じられた「秩序」の時代、60年代〜70年代半ばにかけて現行秩序(ゴジラにおける水爆実験)は信じられないが「未来」を希望できた時代を経て70年代半ば以降、未来にも希望を持てなくなった若者達に端を発する「自己」のために現実を読み替える(オシャレ、サーファー或いはそこから脱落したオタク達のための宇宙戦艦ヤマト)時代が始まったというものである。

当時、これら膨大な情報量と、それらの絶妙な組み合わせが織りなす「戦後日本社会の文化・精神的側面による時代区分」というおよそつかみどころのない概念の矛盾なき言語化を喰らわせられた私は、俗に言えば全て世界を解ったかのような言い知れぬ万能感に酔いしれたのを今でも覚えている。それらが単なる言葉遊びに過ぎないと揶揄する者がいるだろうが、私はこれこそが読書体験というものであり知の快楽なのであると胸を張って言えるが、それはこの際置いておく。とにかく、正に宮台真司の知の体系のような様相を成している本書において「大きな物語」の消失とそこからの「終わりなき日常」論の導入としての扱いにとどまっていたこれら時代区分の言語化と江藤淳「成熟と喪失」(2)において主題となる「成熟」論を組み合わせることによって、書名でもある「母性のディストピア」及び上記「自己の時代」とそれ以降の日本人のメンタリティを鮮やかに書き出したのが宇野恒弘「母性のディストピア」(3)である。

この度の読書体験は、私が頭の片隅に抱いていた長年のモヤモヤ(時代区分)を解消し明快にしただけにとどまらず、Z世代としての「データベース」時代の生き方について深く考えさせるものであった。

さて、ここで第一に述べておくのは、宮台の用いた時代区分と宇野のそれは多少異なり、宇野が用いているのは見田宗介による「理想→夢を経た虚構の時代」という区分だということである。

本書(母性のディストピア)で主題となる虚構の時代、これは言ってみれば現在を変えられないのだから虚構で満足しようじゃないかというメンタリティが席巻した時代であり、その様相は宮台の「自己の時代」に重なる部分がある。戦後日本社会は、「虚構」のイメージを代表する「アニメーション」が代名詞的存在になったことが示しているように「虚構の時代」に極めて親和的であったわけだが、この土台には敗戦とその後の日米安保体制が規定した、俺たちは決して「父」になれない、つまり真に「成熟」した国家にはなり得ないという現実が引き起こす絶望と鬱屈があったと言える。

戦後日本人のメンタリティについてもう少し詳細に言えば、戦前においては成熟とはそれが不可能であることを自覚しながらもその意思を表明することであったのが、敗戦によりそれすらもできなくなったため、虚構の形でそれを仮構するようになったというものである。(4)

ここで表現されている戦前の「成熟」というのは江藤が「成熟と喪失」で述べていることそのものであり、つまり人間は「不可能であることを自覚」=「喪失を経験」することで、真に成熟するというものである。なお、この江藤の提唱した一度負けてより強くなって立ち上がるというジャンプ漫画的発想がヘーゲルの自由論に端を発しているのでないかということについては「ヘーゲルと江藤淳の関連性について」で述べている。

ともかくここで重要なのは、戦後日本人が「成熟」の道を断たれてしまったということである。そして、それでもなおそのことを自覚しつつ「妻」や「女」に頼ることでそこに限定された偽の「成熟」を達成(仮構)することができた宮崎駿や江藤淳及びその世代の状況を評したのが「母性のディストピア」である。

そして、時が経った現在、かつての「女」の位置を代替する「インターネット」が登場したために、日本人を含む世界の人々が「成熟」を達成(仮構)、というか自己の「承認」と言い表すべきものを得ることが以前よりも容易になったというのが本書の主張である。

その結果の是非については言うまでもないだろう。「責任について」を引用すれば、「何にも「責任」を負わないが故に、行き過ぎた正義や権利を叫ぶ個人の集団が生じ」たというのがその議決である。正義や権利の体を成していればまだマシで、SNSに蔓延る陰謀論などは、実態のない偽りの承認を得られたが故に暴走してしまった赤子の成れの果てという表現がピッタリであろう。

さて、「母性のディストピア」は虚構とその先(データベース)の時代における日本人的精神の負の側面に着目したものだが、本書では一方でより客観的に「虚構」の時代のその先について語っている。それというのは、オウム真理教が露呈させた「虚構」では満足できなくなった若者達の存在、或いは01年同時多発テロ、そして「インターネット」革命の発生が「虚構」の時代の終わり、それに続く「拡張現実」の時代の到来を意味するというものである。

それは、「アニメ」や「映画」或いは「テレビの中のスーパースター達」といった虚構が退潮し、代わって躍進した「LINE」「Instagram」といったSNS(Zenlyなんてのもあった)、手が届くアイドル「AKB」に「YouTuber」、「マッチングアプリ」といった虚構(インターネット)が現実をアップデートする時代に突入したということを意味する。

「虚構」ではなく「現実」こそが最も高いパフォーマンスを発揮する(5)という宇野氏の言葉は、私がかねてよりある配信者のコンテンツに抱いていた思い、「これはもう物語を超えてしまっているのではないかという感想」に見事に合致する。

それは、およそ普通に生きていたら出会うことのない奇怪な人々(物乞い、詐欺師、ペドフィリア、一方では極めて真っ当な活動家も)や今ここで性的虐待やネグレクト、各種犯罪に苦しむ少年少女達の「リアル」な叫びと告発が次々に寄せられ、これらのアクの強い案件を持ち前の魅力的なアクの強さと饒舌な喋りと熟練の行事捌きをもってエンタメコンテンツに成立させる「コレコレ」とそれらを「リアルタイム」に享受するために集結する10万の「コレリス」(リスナー)、これらの要素が相まった「現象」と言って良いそれが「拡張現実」そのものだということである。

彼(コレコレ)については別に述べる機会を設けるとして、彼の存在のみをもってしても、いわゆるコンテンツ(虚構)信奉者である私を愕然とさせた宇野氏の新たな「時代区分」の提唱はなかなか異論を挟む余地のない明快な提唱であると言わざるを得ない。

この「データベース」時代に我々はどのように生きるべきか。生産者の観点から言えば、「虚構」それのみで勝負するのを躊躇させるだけのインパクトは十分にあると言えるだろう。だが、選択肢は物語で人々を魅了することも諦めるのか、或いはどのように「物語」と「現実」を組み合わせて「現実」を「拡張」するのか、というように決して一つではない。これは「消費者」の観点にも言えることだが、無闇に悲観的になるべきではない。「時代区分」がその時代を鏡のように映し出すのか、或いは「時代区分」論が「時代区分」を作るのかはわからないが、一つ確かなことは今ここにいる我々の趣向と行動が「時代」そのものなのであるのだから。

(1)宮台真司(2014) 「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」幻冬舎

(2) 江藤淳(1993)「成熟と喪失」講談社

(3)宇野常寛(2017)「母性のディストピア」集英社

(4) 宇野常寛(2017)「母性のディストピア」集英社p372

(5) 宇野常寛(2017)「母性のディストピア」集英社p80

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