ヘーゲルと江藤淳の関連性について


同一化

江藤淳著「成熟と喪失」(1)は、近代化と敗戦が日本人にもたらした家族観・価値観の転換を先駆的に描いた傑作なのだが、ここで行われている「成熟」するとは何かについての議論は至る所で、ヘーゲルの自由論とリンクしている。

そこで、両者のつながりを指摘しながら、ヘーゲルの「自由論」の全体像を明らかにしていきたい。

❶箇所目

「成熟と喪失」には次のような一文がある。

「母が「教育」と規律という「公式」の期待を強調すると、彼はそのかげで安心して女との関係のなかに際限のない「自由」を味わえる。」(2)

早速「自由」に対する言及の箇所から始めるが、ここで言われているのは母という他者による束縛が存在するからこそ、彼は自由という感覚を味わうことができるということである。

どういうことかというと、ヘーゲルは「自由とはそこにしかなく、他者に関係しないもの、他者に依存しないものは自由ではありません。」(3)と述べている。つまり、「自由」という感覚は、その成り立ちに他者の存在が不可欠であり、他者がいることによって初めて成立するものなのである。何故なら、もし世界に自分一人しか存在しないのであれば、その時、彼は何からも自由ではないということができ、そこには「自由」が成り立たないからである。

つまり、「成熟と喪失」的には、近代以前、或いは子供時代の「彼」は自由であり、つまりそこで世界は完結していたと言える。

❷箇所目

「「成熟」するとは、喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの「悪」をひきうけることである。実はそこにしか母に拒まれ、母の崩壊を体験したものが「自由」を回復する道はない。」(4)

ここで言われているのは、子供が「成熟」するというのは、自身を守ってくれていた母を「喪失」し、そこから1人立つことを指すが、この「喪失」には母を見捨てたというある種の罪悪感を伴うということである(両親に愛されて育ったあなたなら、故郷を発つ時、それまで自分を育ててくれた彼等を置いて去ることに対して少なからず罪悪感を抱くのではないだろうか?)。また、これを紐解けば、それまで自身をある種拘束していた母を喪失し、一旦は「他者からの自由」の「他者」を失い、「不自由」になりつつも、今度は母を拒んだ自身に対して「罪悪感」という新たな拘束を与えることで、再度「自由」になるのである。つまり、「成熟すること」=「喪失を経験して再度自由になること」というのが江藤の主張である。

この「再度」自由になるという特徴的な言説について、近しいことをヘーゲルが述べていることが、彼の名著「精神現象学」の入門書より明らかとなる。

「自己意識」は、他者の関係のなかでは、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、言うなればつねに一種の「自己喪失」の状態にある。そこで、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすれば、「相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る」という態度をとることになる。(5)

この一文の本質について語る前にまずは前提として、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすること、すなわち自己意識の確立とそれへの「他者」の関わりについて、ヘーゲルの「哲学史講義」を引用することで明らかにしていこう。

その真髄は、「他者を自覚するものは他者と同一の存在であり、だからこそはじめて、精神は他者のうちにあっても自己を失うことがない。」(6)という一文に現れている。

これの説明は少々面倒なのだが、かいつまんで言えば、人間の自己意識の確立は精神の「発展」によってなされる。そして、「発展」の定義は、そのものが目に見えない潜在状態から、目に見える顕在状態へと変化することである。これを例えると、潜在状態の胚珠から芽が出て花が咲くというとき、芽や花が顕在化したということである。加えて、発展するとき、そのものは潜在状態から顕在状態になりつつも同一のままにとどまり続けるということができる。(7)つまり、胚珠から出た芽が花になって、そこについた果実からはまたしても胚珠が生まれるということである。発展し、変化しつつも最後には同一のもの(ただし、別の個体)に戻る。

しかし、これを精神に置き換えた時、つまり精神の「発展」については、植物のそれとは根本的に異なる事態が生じる。

というも、精神の発展においては潜在状態の私と、顕在状態の私とが、植物で言う胚珠とそこから生まれた胚珠とは異なり、全く同一のもの(同一個体)でありつづけるのである。これはある意味当然のことで、自己意識なき獣的な田中くんに、自己意識が芽生えたからといってそれで田中くんが山下くんに変身するわけではない。田中くんはあくまで田中くんなのである。

そして、ヘーゲルはここに自己意識確立の鍵があるとした。つまり、人間精神は、顕在化(他者化)して潜在状態(自己)ではなくなるものの、しかし、それでも両者が同一の存在(同一個体)であり続けることによって、つまり他者がいることに気がつく(自覚する)ことで、自己が自己という存在であることを知ることができ、なおかつ、自己を失わずに済むのである。

ヘーゲルは「精神現象学」においてはこのことを「無限性」として表現している。何が無限なのかというと、様々な形で他者と関わり、影響されつつも「無限」に自己へと戻ってくることができるからである。(8)かなり抽象的な概念だが、ヘーゲルはこの論を生物全般が、様々に区別されつつも(哺乳類と魚類とか)根源的に「生物」としての統一を保っていることにも適用している。(9)

つまり、自己が他者と関わりつつも自己を保つという概念はより普遍的な「無限性」の一つの例であるというのが正しい見方だろう。

さて、長々と人間精神の特異性、自己意識確立への道筋について語ってきたが話はまだ終わらない。まだ例の一文に辿り着く前に話すべきことがある。

というのも、ヘーゲルは「自己意識」について、自己の個別性を意識している状態、にとどまらない「他の否定」を通して自己の絶対的な「個別性」を確保しようする独自の欲望であると述べている(10)。これはつまり、自己意識はそもそも欲望であり、だから我々はその確立を目指し、そして他者との関わりも、この欲望の正体が、他者による自己の承認の欲望、つまり、「承認欲求」を指していることに端を発するということを示している。

この現代人を悩ませる厄介な欲望について、ヘーゲルが17世紀に最初に言及したのだとしたら、その偉大性たるや凄まじいという他ないだろうが、とにかく今重要なのは自己意識が「欲望」であり、「承認欲求」であり、そしてそれは相互の承認をかけた戦いを招くということである。そしてようやく、例の一文につながる。

「自己意識」は、他者の関係のなかでは、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、言うなればつねに一種の「自己喪失」の状態にある。そこで、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすれば、「相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る」という態度をとることになる。(5)

最初、自己意識確立の話は、他者と関わりながらも地道に頑張る己?といったどこか牧歌的な雰囲気を漂わせていたが、その実が果てなき欲望の賜物であると分かった途端に、見方は他者との熾烈な争いに一変する。そこで一度は自己を「喪失」しながらも再度「本気」で「自己自身」たる必要が生じる。この、一度は自己を喪失しながら、再度の自己意識の確立の必要性が生じるというのは、一度は自由を喪失しながら、再度の自由の確保=成熟の議論を少なからず想起させることについては言うまでもないだろう。

更に言えば、自己の承認についてヘーゲルはここで人間の自己意識が他者に承認させたいものの正体は「自由」であると述べている。自己意識の確立についてもそれはすなわち、自由を得ることだと読み替えることができる。❶箇所目の議論では、自由は他者がいることによって初めて成立すると述べているが、自己意識の確立と自由が同じものを指している以上、それらにとって他者が必要不可欠なのは自明のことなのである。

そしてヘーゲルはこの「自由」について以下のように続けている。

「これに対して、奴は、「死の畏怖」によって自由を放棄し、そのことで主の威力に服したのだが、じつはこのことのうちに、むしろ「自己意識の純粋な自立性」の自覚、いいかえれば、実存の自覚の契機がある」(11)

ここでいう「奴」とは、承認をめぐる戦いに敗れた側である。敗者をわざわざ「奴」と表現しているのは、この戦いが獣同士の戦いとは異なり、敗者を自身に「自由の承認」をもたらす存在として生かしておかねばならないために、「生命を残しつつ自由において優位な関係」、すなわち「主と奴」として表現しているためである。

ともかく、重要なのは、ここでヘーゲルは一見自由な「主」よりも、「死の畏怖」を体験している「奴」の方が「真」に自由であると述べていることである。

ここでヘーゲルによる「自己喪失」「本気(再度)の自己意識確立」&「死の畏怖」「真の自由」と江藤淳による「喪失」「成熟=再度の自由」という対比構図が完成する。

❸箇所目

まだあるのかよ、といった感じだがこれは蛇足である。つまり、何か新しいことを述べるわけではない。

先ほども引用しているが、江藤は批評対象である小島信夫「抱擁家族」の主人公、俊介が妻に母としての役割を求めようとするのを「血縁以外のものを血縁に同化させようとする衝動」と評し、(12)よって彼の「自由」には「他者」がなく、それはグロテスクな「自由」であると評している。つまるところ、母を喪失した俊介は成熟し、真(再度)の「自由」であり続けるためには「他者」が必要だったにも関わらず、ついにそれを実現することができなかったという悲しき事実である。

さて、長々と述べてきたのでまとめよう。

ヘーゲルによれば、自己意識の確立は、無限性という性質を持って他者との関わりによって起きる精神の発展によって達成される。また、ヘーゲル及び江藤によれば、自己意識の確立は同時に他者からの承認、すなわち「自由」を得たいという「欲望」でもあり、この他者との承認をめぐる戦いの敗北(喪失)の経験が、「真」の自由=成熟への条件であると述べたのである。

(1) 江藤淳(1993)「成熟と喪失」講談社

(2)江藤淳(1993)「成熟と喪失」講談社p17

(3) ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p54

(4) 江藤淳(1993)「成熟と喪失」講談社p32

(5) 竹田青嗣(2010)「超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」」講談社p63

(6) ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p53

(7)同書p52

(8)竹田青嗣(2010)「超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」」講談社p51

(9)同書p58

(10)同書p59

(11)同書p67

(12)江藤淳(1993)「成熟と喪失」講談社p87


“ヘーゲルと江藤淳の関連性について” への1件のコメント

  1. […] 著者が引用するヤスパースは「責罪論」の中で、責任は基本的に個人的なものであることを述べつつも、その「個人的」は責任を負う主体が個人的であることを指すにとどまり、結局は「何」に対して責任を負うかという点で「他者」を媒介にして生じるものであると述べている。その意味では、つまり、徹頭徹尾個人的なものであると勘違いされがちな点については「自由」と性質が近しいと言えるだろう。 […]

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