・社会
・責任
佐伯啓思氏の「現代民主主義の病理」(1)を読んだ。書名から察せられるように、主に日本の社会全般を批評したものであるが、重要なのは本書が出版されたのが1997年ということであり、ここでは過去の日本が論じられている。それは、戦後日本がアメリカ的な大量生産と競争的市場経済及びリベラル・デモクラシーを無批判に受け入れてきたことであり、オウムとサブカルチャーの問題であり、そしてマスメディアの役割についてである。
中でも、著者が当時の盛んに行われた「官僚バッシング」を念頭に置いて、「デモクラシー」における「責任」について論じていることは、否が応でも昨今過熱化の様相を帯びる「財務省解体デモ」を想起させる。
「個人を絶対化するのではなく、個人を相対化するものがなければ責任論など成り立たないのである。」(2)
「個人を超えたものがなければそもそもわれわれが責任をもつ「何か」が存在しない。」(3)
著者が引用するヤスパースは「責罪論」の中で、責任は基本的に個人的なものであることを述べつつも、その「個人的」は責任を負う主体が個人的であることを指すにとどまり、結局は「何」に対して責任を負うかという点で「他者」を媒介にして生じるものであると述べている。その意味では、つまり、徹頭徹尾個人的なものであると勘違いされがちな点については「自由」と性質が近しいと言えるだろう。
「自由とはそこにしかなく、他者に関係しないもの、他者に依存しないものは自由ではありません。」(4)
私はこれら理論的な「責任」の本質はいま社会で起きていることを理解する上で極めて重要であるように思う。それはつまり、デモクラシーを声高に叫び、個人主義を推し進めた時、そこには何にも「責任」を負わないが故に、行き過ぎた正義や権利を叫ぶ個人の集団が生じるのではないかということである。
財務省の前で職員に対し罵詈雑言を浴びせる動画がSNSで拡散され、それに対して財務省の中に日本国籍を持つ者はいないなどという常軌を逸したコメントが付される様からは、「責任」というものの片鱗も感じさせない個人達の集団による暴走以外の何も感じることができない。
本書では別の章で「信頼」というキーワードも登場する。
「アメリカの大統領の意志決定や、国際関係のシステムを、円やドルやマルクなどの通貨を、中国共産党首脳部の決定を、われわれはある段階から先はほぼ無条件で信頼してしまわなければ仕方がないのである。とりわけ重要なことに、われわれ自身の国家の意志決定においてさえも、いくら人民主権とはいえ、最終的には政治家や官僚を、またそのシステムを信頼する以外にないのである。」(5)
財務省や、もっと言えば石破政権もWHOもファイザー社も。我々は彼ら一人一人の構成員も知らないし、難しい経済の話やワクチンの成分一つ一つまで到底理解は及ばない。しかし、だからこそ、同じ人間社会に存在するファクターとして、人類の安寧と発展を願う同士として「信頼」が必要なのである。
私はこの情報化・加速化する社会では、チャットGPTや新NISAやマッチングアプリよりも「責任」と「信頼」という極めて根本的な概念についてゆっくりと深く思考してみる必要があると思う。
或いは、「SNS」が「繋がり」という体の良い響きをもってその実、我々の社会を分断に追い込み、人々を対立に巻き込もうとする今、我々は「家族」や「仕事」といった前近代的で時代遅れかもしれないが「責任」と「信頼」を醸成してくれるものに触れなければいけないのではないだろうか。
誰かを「信頼」し、何かに対して「責任」を負うこと。そこから我々は社会に繋がり、社会の一員になり、社会を形作っていくのだから。
(1)佐伯啓思(1997)「現代民主主義の病理」日本放送出版協会
(2)同書p123
(3)同書p123
(4)ヘーゲル(2016)「哲学史講義I」(訳:長谷川宏)河出書房新社p54
(5)佐伯啓思(1997)「現代民主主義の病理」日本放送出版協会p222