大人の素晴らしさについて


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子供の頃、自分は真面目なことを言っているつもりなのに、大人にまともに取り合ってもらえないことが嫌だった。小学生の頃のぼんやりとした記憶だが、かなり遠縁の夫婦の旦那さんが救急車で運ばれたことがあった。我々(両親、祖父母)が彼のベッドを囲む中、2時間ほど遅れて倒れた旦那の別居中の奥さんが息せき切って駆けつけた。その後、病院を後にして、大人たちが元々遊びが激しく評判が良くなかった奥さんについて好き勝手議論しているのを聞いた私は「あのおばさん、真っ青なマニキュア塗ってたよ」と同調した。

それに対して祖父は「流石よく見てるなあ〜」と感心して見せた。この何ということのないやり取りをぼんやりと記憶しているのは、褒められて嬉しかったのと同時に、祖父に軽くあしらわれてしまったことへの少なからずの不満と他の大人たちの苦笑いや目配せを感じ取ったからだろう。

別に、当時の彼等の対応を否定するつもりはない。一般的に考えて小学生を大人の陰口の場に引き入れることは正しくないからである。私が抱いているのは、今更ながらその下世話な会話の内容を聞いてみたいという下世話な感情でしかない。また、あの時の発言に対して、「ああ、あんな歳してケバすぎるんだよな」と返答することは正しくはないが、しかし、私はそのように返答されたかったし、だから私ならそう返答するだろうと思うくらいである。

小学校〜それは小さな社会〜(1)には以下のようなシーンがある。

1年生の女の子が泣いている。先生はこの子のお母さんが具合が悪いのよ、そっとしてあげてと近くの子達に説明している。それに対してある男の子がおもむろにティッシュを差し出す。先生はそれに微笑んで、良かったねと女の子に手渡す。

こういうシーンもある。

6先生の係決め。図書委員に立候補した男子は熱弁を振るうも、投票の結果落選してしまう。いじけてしまった彼は「他にやりたいものはない」と嘆き、それを見た図書委員に当選した女の子は「そんなにやりたいなら譲ってもいい」と声をかける。間を取り持った先生は「○○もそう言ってるし、頑張るんだぞ」と締めくくる。

当然のことながら、大人同士であったのならティッシュを渡すのにも係を譲るのにも間に先生という第三者を挟む必要はない。また、後者について言えば役割分担などと言うものはもっと冷徹に事務的に決する。少なくとも、課内の面前で投票が行われ敗北するようなことはない。

私の感性はきっとズレていて、上記のシーンを見た時、ただただ子供という存在の未熟さを不憫に感じた。もっと言えば、まともに取り合わない祖父と結果的に裁定者のように見える先生が絶対的に子供とは身分の異なる上位存在に思えた。

一方で、これを大人同士に置き換えた時に、大切な人の親の具合が悪いという状況に、生半可にかける言葉もないだろうから無言の行動で感情を示したり、そしてその優しさにきっと心が和らぐであろうなどということ想像した時に、より複雑な感情を持つ大人の方が未熟な子供よりも人間というものの本質、素晴らしさが溢れているのだと思った。

また、件のケバい妻について言えば、今までの経歴や態度、起こしてきた数々の事件を情報交換しつつこき下ろし、時々おまけ程度に旦那を哀れに思い、それでも旦那の危機に時間をかけてケバケバしく着飾ってくる妻の心情とは如何なるものか、内面は外見に現れるなどと戯言をのたまう極めて下らない、しかし敢えて言うなればただ単純に楽しい一時を過ごせることの素晴らしさについて考えるのである。

さて、話はガラリと変わるが、古市憲寿さんが最近発売された自身の新著「昭和100年」に関して以下のようなツイートをしている。

『昭和100年』はオリンピックについても書いているので、当然コロナについても書いています。新型コロナの流行が日本にとって未曾有の事態などではなかったこと、尾身茂さんの「嘘」と責任についてです。本の一部を共有します。(2)

古市さんが当時から過剰なロックダウンや緊急事態宣言に対して苦言を呈していたことはよく覚えている。その一方で、発足早々にオミクロン株への迅速な対応を評価された岸田政権が、結果的にマスク着用や黙食、入国規制や感染待機日数に代表されるコロナ対策を世界でも有数に長引かせたことから分かるように、日本国民は人々の自由よりも命と健康を優先したという見方は正しいだろう。2021年に撮影されたとある小学校を舞台とする本映画には、前述したように小学校とそこに暮らす者たちの特性が充満しており、それらは観た者の記憶を刺激するに違いない。しかし、それと同時にコロナ禍という特異な時代の、社会の民意と政治の政策の犠牲者たちの悲劇が克明に記されている。

我々は、日常が奪われたあの子供達のことを想って嘆いているだけで留まってはいけない。それを必要な犠牲であったと看過できる者以外は、あの世代が何を失い、その結果得られなかった経験によって、彼等が成長し社会の主軸になる時、社会に対してどのような影響をもたらすのか、つまり自らの選択とその結果を見定めなければならない。そして、また訪れるであろう感染症危機の際、如何に自由と命を天秤にかけて振る舞うのかを大いに考えるべきであろう。

(1) 山崎エマ(2023)「小学校〜それは小さな社会〜」シネリック・クリエイティブ

(2)古市憲寿[@poe1985](2024.12.19)[『昭和100年』はオリンピックについても書いているので、当然コロナについても書いています。新型コロナの流行が日本にとって未曾有の事態などではなかったこと、尾身茂さんの「嘘」と責任についてです。本の一部を共有します。]https://x.com/poe1985/status/1869580772539331020?s=46&t=QwKWcHIOPaCBNvd6TrIn7A

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