・戦争
・村上春樹
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」ときて、「羊をめぐる冒険」について集大成感があったかと言えばあまりそういう類のものは感じられなかった。ただ、相変わらず前作と共通した要素はあって、「適度な運動」「SEX」「闇」などはこれまでも、そしてこれから(海辺のカフカ)も村上春樹の要素としてあり続けるのだろう。
わるまだ集大成感もないし、全体として綺麗な何かを言うこともできない。一言でいえば、「まあまあ」な作品だと感じた。だが、これで話を終わらせるほど事態は単純ではない。それは、「私が何かを感受するには未熟過ぎたのかもしれない」などというような抽象的な言い訳の類ではなく、読む側の「精神状態」に関ことである。というのも、これまで村上春樹作品に触れていた時の私は「笑気麻酔」やら何やかんやら、大方メンタルに支障をきたしていたと言える。実際私は「1973年のピンボール(僕に惹かれて)」の感想について「彼らが孤独を感じ、未来を憂いているということが、尚のこと私を安心させ、この世界に深く共感するのである。」というようなことを述べている。一方で、今このように客観視できていることが何よりの証明となるが、現状私のメンタルは安定している。だから今の私にとり村上春樹の陰鬱な世界はそれほど共感を想起、或いは必要性を感じさせないのかもしれない。だが、今述べたことは物事が単純な二元論(つまらない、面白い)ではないという風味のことであって、結局のところ本作が私にとりまあまあであるという事実は変わらない。
しかし、これで話を終えようという気はない。良い読書というものは我々の思考を刺激するから良いのであって、如何に「羊をめぐる冒険」がまあまあな作品だとは言っても、それは何らの刺激性もないというレベルからは程遠い。
「ちょうどある種の人々がカレンダーの数字をひとつずつ黒く塗りつぶしていくよう」(1)な、「僕」特有の不幸な時間感覚で営まれる生活のルーティンに「読書」が含まれるということについて思うところがある。「それから三日が無為のうちに過ぎた。何ひとつ起こらなかった。」(2)この昭和の読書家青年にとり、読書は無為の要素の一つでしかなかったようだが、私にとってはそうではない。その理由の一つは個人的で、もう一つは一般的である。個人的な方から言うと、私はかつて休み時間には足繁く図書室に通い、誕生日プレゼントに小説を買ってもらっていたり読書家の小学生だった。だが、中学に入る頃、親がデビューすることで劇的に出会った「スマホ」がそういう牧歌的?な文化的体験を根こそぎ刈り取ってしまい、私の日常から読書は消え失せ、再会するまでにおよそ7年間の空白が生まれた。現在の私の読書への執着ぶりは十中八九空白期間の反動から来ているが、とにかく今や私にとって人生の目的、相棒と言って差し支えない「読書」は当然のことながら、無為とは程遠い。長くなったが、これが個人的な理由である。一方で一般的な理由は、スマホの登場によって読書という行為の価値が相対的に高尚になったことである。それの是非は置いといて、多くの(人間の割合的には少ない)読書家は今や堂々と、特別な気持ちで読書に励んでいるのではなかろうか。先に引用した箇所からは、そうなる以前の読書(今で言えばYouTubeのショート動画を眺める事などに置き換えられるのだろうか)の価値の片鱗を見て取ることができる。
「戦争に行きたくなかったからさ」(3)ここで唐突に、それまで「羊」「鯨」「耳」などの自然的事物や「映画」「ピクニック」「フルーツ・ケーキ」「白ワイン」「シェービング・クリーム」と言った村上春樹作品に欠かせない現代的で都会的で当時の洗練された文化的要素とは相反する歴史的で政治的な事象が登場する。いや、実際は「戦争」はここで初出したのではなく、そもそも「先生」は満州に渡って羊と出会っているし(4)アイヌの青年は戦争で息子を失っている。(5)ただ、本や他人の語るまた別の他人の過去といった間接的なものではなく、都会的消費的に現代を生きる「僕」の目の前に唐突に現れた「戦争」のもたらす違和感の大きさは特別なものである。恐らく、この時の羊男は、鼠宅に訪ねてきているのとは別の、つまり、鼠が身体を借りている状態ではない羊男本人であるように思う。この羊男という、滑稽ながら悲哀を感じさせる存在の羊男たる理由が徴兵逃れであるというのからは、村上春樹の戦争への強い忌避感を感じるとることができる。つまりは、そういう時代だったのであろう。
「海のことはもう忘れよう。そんなものはとっくの昔に消えてしまったのだ。」(6)
「夏に彼女と車で海を見に行く。」恐らく「僕」(村上春樹)を構成するこの四要素で最も失われやすいのは「海」かもしれない。何故なら「海」は「車」や「女」のように何処にでもある訳ではないし、「夏」のように定期的に向こうから訪れるものでもない。いつも多くのものを失っていると感じている「僕」は、ついに「海」をも失ったのである。また、故郷の海が埋め立てられている事実を踏まえて海=故郷を失ったと感じているとも言えよう。「海は五十メートルぶんだけを残して、完全に抹殺されていた。」(7)しかし、三部作で一貫して「失い続けた」僕の作中の結末、そして描かれない未来について考える際に「海」は重要な役割を果たしている。
でもある。まず、「僕」の本作における思考的方向性について語ろう。「ひきのばされた袋小路」(8)にあって妻と別れ、相変わらず「貯金を食いつぶすように」(9)不幸な時間感覚の中で生きている「僕」だが、妻との絶望的な別れから一月ちょっとで極めて唐突に「耳」持ちの彼女と出会う。その気の変わりようにも驚くが、いよいよ彼女との「羊をめぐる冒険」が始まってからはそれに関する思考・出来事がほとんどで、前作で常に「僕」を苛んできた陰鬱な過去と未来への憂いは鳴りを顰める。しかし、その冒険の最中、「僕」の心の拠り所となっていた「耳」持ちの彼女はあっさりと姿を消し、かつて同質の悩みを抱えていた「鼠」は生きることを諦める選択をする。一方で最終的な「僕」の選択、決断、展望については明確ではない。しかし、本作が「歩き始めると背中に小さな波の音が聞こえた。」(10)で締めくくられていることからは一定の明確性を読み取ることができる。つまり、失ったはずの「海」を再び描くことで、失われたものとの再会、新たな出会い、そして出発を表現している。これは何かを失ってばかりだった「僕」にとっては満足すぎるほどの結末と言えるだろう。そしてこれこそが私が村上春樹を好きな理由でもある。
(1) 村上春樹(2004)「羊をめぐる冒険(上)」講談社p41
(2) 村上春樹(2004)「羊をめぐる冒険(下)」講談社p179
(3)同書p192
(4) 村上春樹(2004)「羊をめぐる冒険(上)」講談社p105
(5) 村上春樹(2004)「羊をめぐる冒険(下)」講談社p90
(6) 村上春樹(2004)「羊をめぐる冒険(上)」講談社p28
(7)同書p159
(8)同書p145
(9)同書p43
(10) 村上春樹(2004)「羊をめぐる冒険(下)」講談社p257