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友人に勧められて久しぶりに水曜日のダウンタウンを観た。「新春クロちゃんリアル人生すごろく後編」(1)ということで、高校生の時分、熱中していたクロちゃん企画ではあったが、連続企画の3週目最終回であるというのは、tverでタイトルを眺めたところで初めて気づいた。
今週の目玉はこれも大学生の時分に熱中し、先述の友人と日が変わるまで電話で熱く語り合った伝説の企画「モンスターラブ」(2)で誕生したクロちゃん念願の恋人であるリチへのプロポーズだという。
恐らく、昔の自分であれば、リアルタイムで放送に釘づけであったに違いない。しかし、変わったのはクロちゃんでも水曜日のダウンタウンでもなく、あくまで私である。
まあ、しかし私が変わったというのに大した理由はなくて、単純に昔好きだった水ダウを始め、すべらない話、相席食堂、月曜から夜更かし、あちこちオードリー、チャンスの時間、ロンハー、アメトークと言った番組のお笑いよりも政治や経済や哲学に関心が移ったというただそれだけのことで、そういう趣味嗜好の変化というのは程度はあれど誰しもに訪れ得る変化だと言えよう。
今日私がクロちゃん企画を久々に観たことがキッカで言いたいのは、それにもかかわらず水ダウのことでもないし、上記のようなお笑い番組のことでもない。むしろそれ以外の、つまりお笑いを売りにしていないグルメや歴史やスポーツ等の情報テレビバラエティに度々感じる違和感についてである。
それというのは、情報テレビバラエティにおいて、そこでは特にお笑いが本質ではないにも関わらず、芸人達が政治や経済やその他多岐にわたるジャンルについて(後ほど語る唯一の例外を除いて)真剣に論じることを避けて、そういう会話をフリにして「笑い」で片付けようとする場面が頻繁にみられることである。その時彼らは、政治や経済、ご当地グルメ、日本の歴史や最新ファッション、世界のカルチャーのことではなく、同僚やVTRの素人たちをどのように弄って落とそうかというようなことばかりを考えているのではなかろうか。そしてそれがまるで美学であるかのような感覚を持ち合わせているものもいる。
作り手達もVTRの質、ファッションの流行の確度、一級の経済批評のみで勝負しようとは思わず、芸人達のそういう振る舞いを称賛し、或いは保険として彼らに頼った番組構成を作りたがる。そして何より、視聴者達も、この極めて変質的でコアな環境(そこでは全てが笑いのフリでしかない)を受け入れ、それに同化し、この環境を望んでいるように見える。芸人と作り手と視聴者が一体となって創り出すこの変質的な環境では、芸人がもし何か真面目な会話だけで終わらそうものなら、それがまるで罪であるかのような空気を創り出し、沈黙し、そしてまた全てがフリと化して終わる。
極めて変質的でコアな環境(そこでは全てが笑いのフリでしかない)と言ったのは、我々の日常における情報とそれに関わる会話と「笑い」の関係は情報テレビバラエティにおけるそれとはあまりにもかけ離れたものだからである。
我々の日常について考えてみよう。我々は日々、様々な会話に勤しんでいる。上司と仕事上の案件の進捗の確認をして、地元の親にペットの健康具合と雪の量を聞き、同期の女の子からマッチングアプリで知り合った男の愚痴を聞かされ、週末には学生時代の友人達と旅行の計画を立てる。我々の情報とそれに関わる会話において、「笑い」はあくまでも偶然に生まれる副産物である。つまり、「笑い」は手段にはなり得ても決して目的ではない。

なお、「笑い」を目的にする唯一の職業が芸人であり、そして彼等がそのプロフェッショナルを見せる事を目的としているのがお笑い番組である。
しかし、それ以外の昨今の情報テレビバラエティにおいても、情報とそれに関わる会話が先に来るのではなく、次元が捩れたように全て(情報とそれに関わる会話)が笑いのフリでしかない、まるでコントのような状況がまま観られる。そこには、確かに「笑い」は存在するが、それ以外は何も存在しない。
フジテレビに全力脱力タイムズ!!という番組がある。(3)時事問題を専門家と共に議論する体を装い、それら全てをフリにして「笑い」を生むコント調の番組である。この刺激的な番組は、そのコンセプトを大っぴらに宣言しそれに振り切っている点で他の情報テレビバラエティと異なる。逆に言えば、他の情報テレビバラエティの多くは、まさに変質的でコアな環境=コンセプトを選択した全力脱力タイムズに本質的に似通っており、その違いはそれを宣言しているか否かにしかなく、結果的に全力脱力タイムズはコントではなく、むしろドキュメンタリーと言った方が適切で、逆に言えば多くの他の情報テレビバラエティが果たしてコントであるのかそうでないのかについて見分けがつかないと言える。
では、情報テレビバラエティから芸人を排除すれば良いのか。私はこれに全く反対する。何故なら、この後語るが芸人達には凄まじいほどの批評的素質が備わっていると感じるし、大体この問題は芸人だけの問題ではないのだから(作り手と視聴者の3主体にそれぞれ問題がある)、解決策にはなり得ないのである。
では、芸人の批評的素質とは一体何のことを指しているのか。それは、度々上記のような悪しき振る舞いに走る芸人達が唯一、正直に熱く多様な意見をぶつけ合いながら議論するジャンル、「笑い」の議論に関するものである。
「緊張と緩和」、「天然エピソードで笑わせたいのであれば、自分発信ではなく、誰かに言ってもらう必要がある」(4)、「ぺこぱ台頭に対して、誰も傷つけない笑いが喜ばれたという批評」「漫才なのか、そうでないのか、そういう議論に意味はない。「笑い」とは定義を崩すものであるべきだ」
芸人たちの「笑い」に関する批評はどこまでも分析的で、そこには時に社会を一刀両断してしまうようなクリティカルさがあり、何より彼らがそれらについて語る様は嘲笑的でも冷笑的でもなく、愛と情熱の詰まった聞いている者を時に感動させ、時に唸らせる一級のそれなのである。
そして、実際にYouTube等においては、彼らが歴史、文学、経済、音楽、スポーツ等の多岐にわたるジャンルについて熱く語っている姿が急速によく見られるようになっている。
しかし、今なお情報テレビバラエティだけが、歴史的な変質的でコアな環境(そこでは全てが笑いのフリでしかない)を維持し続け、結果的にそれらは若者から気味悪がられ見放されているように思える。
情報テレビバラエティは妙な伝統を捨て去り、学者もサラリーマンもアイドルもテレビ局の社員もアナウンサーも芸人も、真剣に政治や経済や自分の趣味ペットのことやら何やらかんやらについて語るべきだと思う。作り手達は全力で最新ファッションやご当地グルメを紹介し、視聴者達もそれらについて大真面目に自分の体験と結びつけて批評すれば良いのである。そしてそこにはあるべき形で「笑い」が産まれるのではないだろうか。
私は今、かつて茂木健一郎が私が大好きだった松本人志に噛みついたことについて懐古している。(5)私は今なら、彼が芸人達から嘲笑されながらも、必死に日本の情報テレビバラエティに訴えたかったことの意味がわかる。
以上が、リチに振られたクロちゃんがVTRの後にスタジオに登場した際に、まさに全てをフリにして「笑い」の振る舞いに終始したのを観て思ったことである。天下の水ダウであっても、みちょぱの真剣な問いかけにクロちゃんには真剣に答えて欲しかったのである。
(1)TBS(2025.1.22)水曜日のダウンタウン「新春クロちゃんリアル人生すごろく後編」
(2)TBS(2022)水曜日のダウンタウン「モンスターラブ」
(3)フジテレビ(2015〜) 全力!脱力タイムズ
(4)Asagei+(2020.5.17)「陣内智則、松本人志に“ガチダメ出し”喰らいながらも「ツイていた」理由とは?」(URL)(アクセス日:2025.1.26)
(5)ORICONNEWS(2017.3.26)「茂木健一郎氏、松本人志に『お笑いオワコン』釈明「応援のつもりで…」」(URL)(アクセス日:2025.1.26)