東浩紀との出会い


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東さんに出会ってからはや2年半が過ぎた。ここらで一旦、総括しなければならない。本当に大切なことであれば忘れることはないなどと 簡単に言ってのける輩もいるが、そんなことはない、人は忘れていく生き物だ。

私が東浩紀という存在を初めて認識したのは、令和3年10月31日に行われた衆議院議員総選挙の投開票ニコニコ特別番組であった。 メンバーは、当時から私が認識していた三浦瑠麗氏、夏野剛氏に加えて、この時初めて認識した東さんと石戸諭氏の4人であった。 この座組はどうやら好評だったようで、1年後の夏の参議院議員総選挙でも行われている。前者が初認識の場であったことを確信できる理由は、 選挙番組の裏で、ハロウィン冷めやらぬ夜の京王線にてジョーカーに扮した男による無差別傷害事件が起き、番組で一瞬話題になったこと、 後者の番組は、その直前に安倍晋三元首相の殺害事件があり、それについての発言を発端に、出演者を始めゲンロン全体が激しく糾弾されるという事態に 発展したという、付随の記憶があるためである。

その後、現在に至るまで総選挙は行われていないが、出演者である三浦氏がその後大きな問題に直面したこと、 番組がゲンロンまでも巻き込まれるほどの大炎上に発展したことを踏まえれば、次の選挙で本番組をもう一度拝むことは難しいのかもしれない。 たった2年半足らずの間の、あまりの世界の変わりようと、かつてあった光景をもう二度と目にすることができないという現実に、 何とも言えない感情が湧いてくる。

ただ、今日はそういう話をしたいわけではない。この2年半で、世界が大きく変化したとの同じように、私の世界も180度変化したということを 語りに来たのである。さて、しかし話を始めるにあたって、先述した東さんとの邂逅についてもう少し詳しく書いておく必要がある。

そもそも私が番組を観たキッカケは、三浦氏と夏野氏という、当時私が認識していた数少ない穏健派?知識人の二人の共演に興味を持ったためである。 当時の私は、AbemaPrimeに強い新鮮さを感じていた。経済とか、社会問題とか、非エンタメの分野について、夏野氏をはじめとして、 面白おかしく語ることのできる人々がいることにいたく新鮮さを感じたのだ。 言ってみれば、当時の私はお笑い芸人ではない、知識人の中の「面白い人」を探し求めていた。

そんな私にとって、その日観た東浩紀という人物は、恐ろしく魅力的に思えた。彼は、威圧的な風体に似つかわしくない軽くポップな口調で、 日本の変わらなさ、選挙の無意味さ、リベラルの戦略の失敗等を、深く本質的に、しかし終始笑いを誘いながら評してみせた。 それと同時に彼は、自身の育った時代背景や思想(90年代という脱自民の機運が勃興した時期に成人を迎えたこと、すぐに別姓が実現すると考えていた こと等)と当時の政治環境を交えることで、先述した評論への肉付けと、初めて彼を認識した私のような人間に対する一定の説得力、 安心感の付与をやってのけたのだ。何より、彼ら4人とそしてニコニココメント欄の、今この空間を純粋に楽しんでいる様子が本当に心地よかった。 そして、その空気の中心にいた東浩紀という人物を追い求めて、私はすぐさま語りを聞ける場を探した。 これは、現時点における私にとっての人生最大の出会いである。

さて、「東浩紀」という語りにおける圧倒的な才覚を持った哲学者と、「シラス」という知識欲に溢れた多種多様な人々が集う心地よき場に 出会った私が、どのような変革を遂げたのか、それを今から語ろう。 自らの思考について語るにつけては、思い立ったが吉日、その日以降も全て凶日である。 何故なら、自らの思考は常に発展し続けるからである。特に、ここでの変革は、単に知識を得たというような物ではなく、思考そのもの、 考え方それ自体を変革させるものであるから、時が経つほどに、それらを記憶にとどめておくことは困難になっていくのである。

ということで突然だが、野球、サッカー、スポーツという行為は本当に楽しい。そんなことは自明であるが、それでもスポーツでしか 味わうことのできない仲間との団結、身体力を限界まで引き出すことで得られる充実感、肉体の強さへの賛辞、そして「一瞬の挙動への全集中と それの重要性」等、考えれば考えるほどにスポーツの魅力は浮き彫りになっていく。それに対して、東さんが語った「一瞬の重要性」についての、 どうしようもないプレッシャーを感じてしまい、どうしてもスポーツに一体化できない理由であるという分析は、実に画期的で鮮やかなものである。

確かに、そういう意味でスポーツと思想は対極にある。思想にはスポーツで言うような一瞬が試される場はない。スポーツも思想も、 長年の努力と準備が重要なのは同じだが、思想においてはサッカーにおけるシュートの瞬間のような、もしかすると自らの努力が実らない 可能性のある究極の一瞬は訪れない。論文を書くにしても、討論するにしても一瞬とは程遠い時間が与えられている。 だからこそスポーツに特徴的な「一瞬の重要性」の、魅力であり理不尽さに私はどこかで納得できず、またそこから来るプレッシャーにも打ち勝てず、 もろ手をあげてスポーツにのめり込むことができない人生だったのである。そういう私にとって、前述の東浩紀の語りは深い共感と衝撃を呼び起こす ものであった。

理想的な政治スタンスについても変化があった。私はかつて、日本政治に伝統的な、強い主張をせず、浅く広く国民に支持されるリーダー像を 好ましく思っていなかった。 自分のやりたいことは言うべきである、失敗を恐れず果敢に取り組むべきである、もっと言えばより大きな善のために、があるべき政治の姿勢ではないのかと まで考えていた。私の根本は、そういう思考なのかもしれない。しかし東さんの、物事を相対的に見ると言う視点、或いは辻田真佐憲氏の、 100点ではなく中間点を目指すべきであるという考え方は、徐々に私の思考を変化させていった。

また、事実として安倍総理の強い姿勢が近隣諸国のみならず、国内においても相当根の深い分断を産んでしまった点、政治というものの、 そもそもの人を友と敵に分けるという性質、そして「正義」という感情の持つリスクを考えた時に、いまの日本の何だかんだ秩序があり、 不満はあれど生活は回っているという風な土壌は、卵が先か鶏が先かは別として、いわゆる日本的な政治に合致したものなのかもしれないと 考えるようになった。 また、このマインドチェンジは自分の行動指針にも少なからず影響している。例えば私は、かつての友に正義感から放った言動について、 後悔するようになった。。。

さて、私は、元来が合理主義で、新しい物好きである。PayPayやマイナンバーカードは、黎明期から利用しているし、clubhouse、ビットコイン、 NFTと新たなテクノロジー?がもてはやされるたびに、時代の変革が訪れたのだと本気でそう思っていた。コロナアプリcocoaやテレワークの普及は 人類の問題解決に大きく寄与するものであると確信していた。そんな私にとって、東浩紀の「人間の持つ厄介さ」という視点は目から鱗の考え方 だった。確かに、理論上はcocoaの普及により憎きコロナウイルスは撲滅できるはずだった。NFTは、デジタル上で常にリスクに晒されている データたちの救世主になり得た。しかし結果は、我々の欲望、無関心、怠惰さ、感受性の豊かさ、その他諸々の複雑な感情、つまり「厄介さ」と 呼ばれるものによって、希望のテクノロジーの多くが無用の長物に成り果てた。東さんは、この人間の持つ厄介な特性を理由に、AIへの諸々の期待 について否定的な立場をとっている。期待を抱き、夢を見ることも大切であるが、盲目であってはいけないのである。

私が東さんから受けた影響はまだまだ無数にある。 シラスの代名詞にもなっている、対談の時間は長ければ長い方がいいという思想は、世間の注目を集めていた「タイパ」志向とは真っ向から 対立する考え方である。当時、映画の倍速再生やら、漫画のネタバレ読みの流行に対して、タイパが行き過ぎているのではないかと思っていた私に とって、この考え方は自然に受け入れられるものであった。ジャンルはずいぶん異なるが、シラスと同じく対談を主とする、YouTubeチャンネル 「鬼越トマホーク喧嘩チャンネル」の動画再生時間、即ち対談の時間が回を追うごとに長くなっているのは、対談というもののあるべき姿を映し出している ように思える。

対談と言えば、東さんがテレビや、テレビを模したネット番組におけるビジネスライクな収録を批判したのも、それまで出演者側の視点に立ったこと のなかった私にとって新鮮に感じられた。これらは合理化とは対にある思想、行動である。先に述べたように、元来が合理主義の私が思うのは、 合理化は何か他に優先するもののためにあるということである。合理化=タイパという手段を目的化してしまい、大切なものごとまで省いてしまっている ようなきらいがタイパブームからは感じられる。

このように、常に物事を考えるにあたって新たな視点を提示してくれる東浩紀が、時たま私と同じ思考を示した時は、やはり格別の感情を抱く。 例えば、東浩紀は滝沢ガレソリスナーである。ガレソ氏の倫理的、法的な問題に気づかない彼ではないはずなので、この告白は大きなリスクを伴う。 にもかかわらず彼は堂々と自らのゴシップ欲を満たすためガレソ氏のアカウントを利用していることを明かす。この正直さが、彼の圧倒的な人間力の 源泉になっていることが明らかなのと同時に、ガレソのおもちゃ箱をひっくり返したようなネタの多様さ、時事性の高さ、 そして彼自身の持つ影響力に興味を抱かずにいられないというのは、人々にとってごくごく一般的な思いであろう。 東浩紀の持つ、この庶民性もまた、彼の学問エリート的経歴見方に捉われず、多様な人々が彼を支持する理由の一つなのだろう。

ガレソリスナーというはっきり言ってお粗末な共通点からガラリと話題が変わるが、コロナ禍に対する態度について、私は東浩紀をはじめとする ゲンロン・シラスに関わりの深い学者たちから多くのエールをもらった。コロナ禍における種々の議論における本質は、一方にどこまでも感染を防ぎ、 できるだけ多くの命を守るために、全員が自由を制限され経験を奪われる世界と、他方に少なくない犠牲を伴いながらも、みなが日常を自由に生きることを 許される世界があり、そのどちらを選択するか、ということである。そこで私は、たとえ人でなしと非難されようとも、行きたいところに行き、 やりたいことをやり、大学生活を満喫するために後者を選択する意志だった。そして東さんらも、子どもたちの成長の機会が損なわれること、 経済的リスクが高まり続けていること、自由という普遍的権利がおざなりにされていること、その他諸々命や健康以外の全ての視点が軽視されていることを 指摘して、後者の世界の大切さを論じてくれた。批判されることも多かったろうが、これらの行動に私は敬意を表する。

さて、東浩紀と出会ってからの2年半について、完璧にとはいえないが、多くを語ることができた。最後に、この吉日は 語りにおける圧倒的な才覚を持った哲学者の、文章(観光客の哲学)に心動かされたことがきっかけで書けたということを述べる。 観光客の哲学については別に触れるとして、「東浩紀」へのありがとうと、今後も彼らに刺激を受けた私の思考の伸びやかな 発展を願って、この文章を締めさせていただく。

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