人間不平等起源論:ルソー


社会

平等

❗️注意❗️ルソーがその起源を追おうとしている不平等とは、自然的な不平等(容姿、知能)ではなく、あくまでも豊かさとか、権力の有無とか そういう人為的なものを指していることに注意しましょう(0)

では、人為的不平等が無い状態とは如何なる状態であるのか。 これについて、ルソーはかの有名な原始状態(自然状態)という言葉を使っている。原始とは、まさにあらゆる点で人間が限りなく動物と区別の つかない状態である。具体的に言えばまず、この頃の人々は言語を持っていなかった(1)。そして彼らには所有の感覚も無く、(2) よって土地の分配は生じず(3)、住居も持たず、寒くない限りは裸で過ごしていた(4)。また、彼らは動物と同様、未来への観念(5)や 死を恐れることを知らない(6)。悪徳と美徳も持ち合わせていない(7)。更に、彼らには性欲はあるが、恋愛感がないために(8)、 「ある人間がある人間といっしょに住むべきなんの動機もなかった」(9)。事実、ルソーは人間の男女が他の動物よりも長く結びついて 共に暮らしているのは、子の立派に育つのに時間を要するからであるというロックの意見に対して、SEXから出産後までの間について、 男が女のそばにいる理由にはならないという辛辣な言葉で一蹴している。

不平等の起源を探る時、まずはこれらの徹底的なまでの原始ぶり?理解する必要がある。事実、私は原初状態というのを想像する時、 アダムとイブ的な愛のつがいがあったり、群れでマンモスを狩ってそれらを壁画に残しているぐらいの状態を想像していた。しかし、 言われてみると、群れがあるのならそこには権力があってもおかしくないし、群れつまり複数という意味では、男女のつがいもこれに 該当するであろうから、やはり人間が他の動物とおよそ知能の面で差異が見受けられない程度の状態から話を始める必要があるのである。

では、そういう根無草どころではない状態の人間が持っていた数少ない物とは何か。一つは動物一般の持つ自己保存のための欲求と恐れ、 つまり苦痛から逃げることや先述した性欲、食欲等(4)(6)であり、もう一つは動物一般のもつ哀れみの情(10)である。哀れみの情を果たして 動物が持つのかと思うかもしれないが、我々は助けてもらった人間に感謝をする動物や、仲間に物を分け与える動物の存在を知っている。 そして、我々にも利害とか正義とか人為的な感情を超えた所で弱き者や困っている者を助けるということがあるのではないだろうか。

さて、ここまで原初状態にないものにフォーカスを当ててきたが、では逆に社会を成立させた人間が手に入れたものとは何か。ここからルソーは 不平等の起源へと迫っていく。まず、自然状態の中に生きる人間が、動物たちと接しながら、時に戦い使役するうちに、武器と火と、 そして自分自身を見つけた(11)。これは、後のラカンの鏡像段階理論に類するものである。この理論では人間は鏡に映った自己という他者を通して、 自己を認識するに至るとされている(12)。一方ルソーは、原始状態の人間にとっての他者を動物に見出す。

その後、人間同士が交流を持つようになった結果、家屋(泥でできた小屋)の成立が家族と区別、そして私有財産の成立を引き起こした(13)。 また、泥家という限られた空間に暮らした複数の人間(家族)の間には、自己保存に関わる安堵や恐れ、そして最強の心情である 哀れみらの初期感情から発展した諸々の感情たちが誕生した(13)。すなわち、愛と憎しみである。そしてまた、 家族の暮らす家屋が隣り合って成立した小社会には、勇気や正義と共に、尊敬、嫉妬、羞恥、虚栄、軽蔑が生まれ、 人間は不平等への大いなる一歩を踏み出した(14)。

一方、この頃の小社会には法が存在しないために、法の代わりを担っていたのは復讐への恐怖であったとルソーは述べている。 ルソーはこの一見して秩序がなく野生的で、かつ原初状態のむくなる善がいささか機能不全に陥るほどには人間の悪徳が猛威を振るう状態について、 これが人間にとって最良の時代であったと述べている(15)。ルソーがこのように考えた理由はただ一点のみ、それでも後の発展を遂げた社会に比べれば余程マシだったからである。

上記の小社会に農業が誕生したことで、人々の土地への興味は加速し、土地の分配と共に所有の概念が生まれた。みな、他者から何かを得るためには、 その対価となる何かを所有している必要があることに気がついたのである。そしてこれに気がついた人々は所有の確保に奔走する中で、未来への見通しも会得した(16)。ここから先は、工具の発明と効率化、持てる土地の大きさが不平等を加速させ、今日に至る。「社会人がその邪悪と欲望と悲惨とのほかに、どんなに苦しみと死に対して新しい門を開いたかを、もしもできれば研究してほしい。(17)」これを具体的に述べると、 過剰な労苦、過剰な競争、利益利害のために騙し、奪い合い殺しあう。支配と隷属、奴隷、そして戦争。

「人間が、そのような悲惨な状態について、ついに反省しなかったなどということはありえない。とりわけ富める者たちは〔……〕その横領が単に 一時的で不当な権利に基づいて立っているにすぎず〔……〕力によって奪われるかもしれ〔……〕ないのだということを、かなり感じていたので ある(18)」 万事休すと思われた状況においてもまだ希望の光は残っていたのである。何故なら、この時点では富を分け合うことが平等で平和な社会に繋がるのだというコンセンサスの元に、話し合いで、或いは多数の力を持って、一部の富を独占する者たちに対して 立ち向かうことはいくらでも可能だったからである。「君たちが有り余るほど持っているものが足りないために、無数の君たちの 兄弟が死んだり、または苦しんでいること、そして君たちが自分の分けまえ以上のいっさいのものを、共同の生活手段のなかから取って、 それを所有しようというためには、人類の特別で全員一致の同意が必要だったということ、このことを君たちは知らないのだろうか(19)」

そんな、富める者達にとって絶望的な状況の中で、彼らが言い出したのは以下のようなことであった。「弱い者たちを抑圧から守り、野心家を押え、そして各人に属するものの所有を各人に保証するために、団結しよう。正義と平和の規則を定めよう。それは全ての人間が従わなければならず、だれのこともひいきせず、そして強い者も弱い者も平等に、お互いの義務に従わせることによって、いわば運命の気まぐれを償う規則なのである。 要するに、われわれの力を自分にさからう方向に向けないで、一つの最高の権力の中に集めよう。そしてその権力が賢明な法に従ってわれわれを統治し、 結合体のすべての成員を保護して守り、共通の敵をはねつけ、永久の和合のなかにわれわれを維持するのだ(19)」

これが、本書1番の衝撃であろう。我々が信じていた、我々の社会の支えであり根本とも言うべき正しさが、 そして正義の使者の贈り物が、つまり法律が人の世の不合理を決定づけたのである。 これについて、だから法を否定するという話でもない。ただ、かつて存在した法なき世界では不平等の是正があり得たが、 今やもうその可能性は潰えたということである。それと同時に、先ほど法なき社会を野生的と評したように、我々は法なき ところにそれこそ自然の拒否感を感じ、それどころかそういう世界を想像すらできず、もはや法なき社会に生きられるようにはできていないのである。

ともかく話を進めよう。ここで、ひとまずの不平等が、個人間のそれが決定づけられたところで、不平等は次の段階に進行するとルソーは述べている。 具体的には為政者と大衆の不平等である。これについてルソーは、人々がそれぞれに法律の遵守に責任を負い、またそれを保証する立場を担っていたのには満足ができなかったのだと述べている。つまり、皆が法律を守らないという混乱状況に我慢ができなくなってしまったのである。 法という果実に手を出した時点で、こうなることは明示的だったのだろう。ともかく、そうやって政治権力が生まれた(20)。

最後に、ルソーはこのような合法的権力が違法な専制政治へと更に移行して不平等の3段階は一通り終えると述べている(21)。更に、 以下のようなことも述べている。つまり、専制君主と一般大衆の間の不平等になる時、再びみなは王の前に平等になる。そして、専制政治=ある意味無法地帯では、先述したように秩序をひっくり返すことが容易になるので、そうやってまた新たな不平等のフェーズへと突入していくのであると(22)。

ルソーは、不平等の起源こそ示しはしたが、我々がそれに対してどう向き合うべきかについては明確な答えは出していない。それはそのはずで、我々は先述したように法なき社会にはもう戻れないし、或いは仮に専制君主を打ち倒したとしても、そこにいる 人間はもう自然状態にあったあの無垢な独立した人間では決してないからである。どういうことかと言えば、ルソーが、現在の我々について常に自分の外にあり、他者の意見の中でしか生きられない(23)と評しており、より詳しく言えばラカンが、先述した鏡像段階理論は一つの例えでしかなく、思考においても人が何かを思考した時、その何かを考える材料は全て前提の言語、知識、つまり他人の考えの元に成り立っている のであるから、思考するということは、他者に同一化するのと同義であると述べているようなことである(12)。本書から、現時点で私が何かを引き出せるとすれば、やはり「法」が不平等の確立に最後の一押しとしての役割を担ったという点だろう。ここについてのルソーの 文章の圧倒的センスについて触れずに置くことができないということは別にして、この法という存在と、これも我々が自然状態から脱することで得た道徳が、もしかするとあり得る最悪の不平等からの脱却に一押しの力を添えてくれるかもしれないと思うくらいが私の限界である。

(0)ルソー(1974)「人間不平等起源論」(小林善彦訳)中央公論社 p31
(1)同書p54 (2)同書p76 (3)同書p53 (4)同書p45 (5)同書p51 (6)同書p49 (7)同書p63 (8)同書p72 (9)同書p170 (10)同書p66 (11)同書p83
(12)宇波彰(2017)「ラカン的思考」作品社p21
(13)ルソー、前掲書p85 (14)同書p89 (15)同書p90 (16)同書p94 (17)同書p143 (18)同書p99 (19)同書p100 (20)同書p105 (21)同書p116 (22)同書p122 (23)同書p125

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