・映画

先に映画を見た知り合いに、事前にある程度の知識を入れておいた方がいいと言われてはいたが、まさかここまでとは思わなんだ。 マンハッタン計画によって、原子爆弾の製造に成功したアメリカが、超大国へとのしあがる足掛かりに、或いは敗北を認めない日本へのトドメを指すために、 広島と長崎に原子爆弾を投下した。しかし、戦争を終わらせるはずだった原子爆弾は、新たな戦争、冷戦の主役となり、激しい軍拡競争の時代が到来した。 ここまでのほんわかとした知識しかなかった私には、小部屋の、オッペンハイマーを陥れたいらしい会議と、白黒の、ストローズ少将が目立っていた会議の 時系列とそれぞれの経緯があまりわからなかった。まず、なりより重要なのは、白黒の会議の方が後の出来事という点だ。これがわからないと、後者の会議で ストローズが、オッペンハイマーを「これは裁判ではない」と一蹴したことが自らにブーメランとして返ってきているように、劣勢に立たされていることにすら 気づきにくい。これには、本作が極めてセリフ量が多く、上記のような大枠を取り違えた途端に、追随する詳細の理解も難しくなるということも関係している。

これら、状況把握の困難による混乱は、後述するトリニティ作戦の成功、そして原爆の投下後、オッペンハイマーの後悔で幕を閉じたマンハッタン計画編直後 の、突如ストローズが前者会議を画策するシーンで頂点を迎える。ここではやり手弁護士のロブが選出されたこと以外、ストローズが誰に何を指示をした セッティングなのかおよそ不明のまま会議が開かれる。恐らく、ここが本作でも突出して理解が難しいシーンであることは確かだろう。

一方で、それ以外の大まかな流れについては、ある程度前提知識があったために、割とスムーズに理解できた。まず、物理学者への道を歩む オッペンハイマーは、一方で組合運動、共産主義にも傾倒していたという点、水爆については、オッペンハイマーの拒否反応は反戦、反核への想いに加えて、 自身が天塩にかけている原爆の邪魔をする存在と見做したという私情も少なからず関係していたという点、そして水爆を推し進めたい政府にとって、 赤狩りはオッペンハイマーを追放するのに都合のいいムーブメントだったという点あたりだろうか。強いて言うならば、湖の辺りで、著名な学者として 振り向いた男がかのアルバート・アインシュタインだった時の興奮を思えば、ハイゼンベルク、ボーア、ベーテ、テラー、ラビ、ローレンスの何れも ノーベル賞受賞者について少しでも知識があれば、より楽しめたのだろう。

さて、オッペンハイマーわからない論壇はここら辺にしておいて、「原子爆弾投下」へ話を移したい。まず、本作でのオッペンハイマーの描かれ方は 全くもって善人ではない。先述したように、彼の水爆への異様な忌避は何も原爆投下後に始まったわけではなく、テラーの初登場時から、マンハッタン計画の 邪魔をする胡散臭い物と見做して決して真面目に向き合おうとしていなかった。その背景には、恐らく原爆への愛、そして自身の名声、権威の維持を脅かす 存在であると見做したことが大いに関係しているのであり、そういう点でオッペンハイマーという男は極めて人間臭く描かれている。 彼を擁護できる点としての、原爆への後悔に関しても、広島・長崎の惨劇を目の当たりにしたということだけでなく、自分がその顔になってしまっている ことへの恐怖が見え隠れしていて(観衆に祭り上げられた壇上で、原爆の後悔へと転じていたり、TIME紙の顔になっていることを恥じている等)、いつでも 自分の処遇が中心にある人物なのだろうと感じられる演出になっている。

そんな本作が随一の盛り上がりを見せるのがトリニティ作戦だ。ドイツの科学者が核分裂を成功させたその瞬間から、オッペンハイマーの人生は原爆の 完成へと動き出す。グローヴスとの出会い、科学者たちの呼集、街の建設、機密情報アクセス権、幾度かの衝突、その末に科学者たちの総決算として トリニティ作戦が行われる。作戦前日は嵐に見舞われ、あわや中止かとも思われたが、無事に決行されることになり、オッペンハイマー、将軍、 その他科学者らは方々に散り、セットされたタイマーのカウントダウンを息を飲んで待つ。このシーンの科学者たちの白身の演技や、上記カウントダウンの 演出には鬼気迫るものがあり、まさに手に汗握る瞬間と言った感じだ。そして、カウントダウンが0を示した時、爆弾は何キロ四方をも飲み込んだ大爆発を 巻き起こす。ここで、無音の中にそびえ立つ大煙と火柱を見ながら、観客の心は始めて作中の人々と乖離する。科学者たちが、努力の結晶として見つめる その火柱は、広島と長崎の街を大爆発で飲み込んだその上に立ち上がったそれそのものだからだ。炎と光と煙が大地を飲み込んだ数秒後に、各地で観察していた 科学者たちの元へ轟音と衝撃が到来する。実験を成功で終えた科学者たちの安堵と興奮、凄まじい歓声は、ここまでの幾多の試練や作戦の鬼気迫る空気が 身を結んだ、通常ならば最高に盛り上がる瞬間なのだろう。しかし、観客は彼らの興奮と歓声が、広島と長崎の人々の大虐殺を祝っている風に感じられて、 ここでも彼らを別世界の住人のように眺める。

その後、オッペンハイマーが壇上に向かうシーンでは、これでもかというくらいに人々のざわめき、足音が爆音で流れる。最高であるはずのこのシーンは、 確かな不穏に感じられ、そしてオッペンハイマーは拍手喝采の人々の肌が、服が、そして存在そのものが溶けていく姿を観る。そう、この不穏は、 これが広島と長崎のメタファーであるが故のものなのだ。そしてこのシーンは、直前のトリニティ作戦の成功で作中の盛り上がりと乖離した観客の心が、 再び作中の演出と合致するシーンでもある。ここで皮膚の剥がれた人々は、実際に皮膚の剥がれた人々では決してない。そういう人々が同時代の遠い地に いたことを知らず、知っていても考えもせず、興奮し、発狂し、歓喜している人々なのだ。

また、先ほどから私は「観客」という言葉を使っているが、もしかすると、「日本の観客」と言う方が適切なのかもしれない。或いは、日本人の中にも、 トリニティのあまりの白熱に、科学者たちと一瞬同化して歓喜した者もいたのかもしれない。これは、科学者、アメリカの民、そして現代の一部の観客達の 興奮に現実を突きつける超絶のシーンなのである。

原爆に際して、記憶に残るシーンがもう一つある。マンハッタン計画の科学者の一人が、自分は計画に参加しないとオッペンハイマーに告げるシーンだ。 彼は、物理学？300年の歴史の結集が爆弾であって良いのかと、至極真っ当な疑問をハイマーに投げかける。それに対して、ハイマーは、その通りだ。 だが、爆弾の所有者がヒトラーであってはいけない、これだけは確かだと返す。恐らく多くの科学者、軍人も同じ考えだったのではないか。そうやって正当化 された行為を、加えて祖国の勝利という大義、国民の期待、最後に未知の科学の完成という欲に後押しされて、止めるには相当偏屈な信念がないと難しかった であろうことは、容易に想像できる。

その一方、そんな情熱を傾けた彼らはトリニティ作戦の成功を経た途端に蚊帳の外へと追いやられる。努力の結集であるリトルボーイ、 ファットマンが運び出されるのを寂しそうに見つめるオッペンハイマーとテラーの後ろ姿には、同じくマンハッタン計画指導の頃に、俺たちが必要とされるのは 兵器の完成までだと一人の科学者が吐き捨てるシーンが重なる。

ラストは、湖の辺りでのオッペンハイマーとアインシュタインの会話が明らかになって物語は幕を閉じる。ここでオッペンハイマーは以前 アインシュタインに投げかけた疑問のことについて話す。それは、原爆を爆破した瞬間に、空気中の窒素に反応して、地球を焼き尽くすまで爆発が止まらない 可能性があるという話だ。当時、その話を聞いたアインシュタインは、そうであるならば、それを敵対する国々に伝えていますぐ開発をやめねばならないと 助言した。怪訝な顔をするアインシュタインに向かってオッペンハイマーは、結局連鎖は止まらなかったこと。地球は今も崩壊に向かっていることを静かに 伝える。そして物語は幕を閉じるのだが、最初、私はハイマーがなんのことを言っているのかよくわからなかった。ほぼ可能性は0と言われていた、 窒素反応による止まらない爆発はやはり起きなかったのではないか。しかし、ここでオッペンハイマーが言っていたのは、窒素反応のことではなく、 原爆誕生によって変化した世界情勢そのもののことだった。冷戦、止まない軍拡、核保有国も増え続け、そして冷戦終結から何十年も経過した2024年現在 もまさに、核使用をチラつかせる大国による横暴な武力行使を、その他の国々が指を咥えて見ているしかないという状況が存在している。この事実が 指し示しているのは、我々の過ごす平和な日常が、決して磐石な土台の上に成り立っているのではなく、いつ何時、オッペンハイマーが世界の破壊者 になるかもしれない極めて脆弱な土台の上にあることを、あらためて認識しなければならないということである。