・同一化
2つの異なる動画において、著名な批評家2名がある同一と思われる事項について語っていたので、その興味深い事実についてここで述べたい。
まず、一人目の岡田斗司夫氏が語っていたのは「オタク道」についてである(1)。 氏は、「オタク」の大部分を、ある特定の作品に執着してキャラを推し、それについてコレクションをする者たちであると定義する。
また、その一方で多数派と一線を画し、作品を言語化し、関連付け、伝承するという「オタク道」なる道を歩む者たちが存在すると語った。 ここでいう言語化とは、その作品について思考することであり、具体的には作者のメッセージ、作品の優劣点等についての思考である。 そして、そこから作品間の共通点、影響の度合い、文化全体の史実等にその思考の間口を広げることを関連付と言う。 最後に、それらを自身の頭に留めず、口頭或いはSNSを通して拡散するという行為を伝承と言い、 これらの変態的行為を岡田斗司夫氏はオタク道と称したのである。これは正に岡田斗司夫ゼミの活動そのものと言える。
続いて東浩紀氏だが、彼はYouTubeチャンネル「ReHacQ」(2)に 出演した際、哲学とは他の学問に横槍を入れたり、他の学問同士の共通点を見出す学問であると述べた。 また、そういう姿勢は多かれ少なかれ哲学者と呼ばれる人々の姿勢に共通しており、古くはソクラテス、そしてカントの、 哲学とは他の学問に対してその条件を問う学問であるという位置付けとも合致するとも述べた。
今挙げた2つの事柄は、他のコンテンツ(学問)を称賛或いは批判し(横槍を入れ)、それらを関連付(共通点を見い出し、条件を問い体系化し)、 伝承していく(哲学者として語り継がれていく)というようにその構成が合致している。
これについて、東浩紀氏が同番組において哲学者の知識を蓄えた(大学において哲学と言われている学問行動)者同士の会話をオタク的会話と称していることが、両者が極めて似通った位置にあることを示唆しているといえる。
また、東浩紀氏が哲学の実践として挙げていたデリダの脱構築(概念の読み替えを指し、この物語には実は異なるメッセージがあるのではないか、的な行為) は、オタク達がコンテンツに作者が込めたメッセージを議論する行動そのものであると言える。
ここまでの話をまとめると、オタク道=哲学ではなく、哲学的行動原理を現代のエンタメ・サブカルについて行う者、そしてその行動が「オタク」と呼ばれているということではないだろうか。
何だか、既に自明となっていることのような気がしてならないが、そういうことに自ら気がつくということが何より大事である。
(1)岡田斗司夫ゼミ(2023)「無料【UG】#433 オタク道を活かした豊かな生き方 2022/3/20」
(2)ReHacQ-リハックー【公式】(2023)「【成田悠輔vS東浩紀】なぜ大学辞め独立メディアを?【哲学とは何か】」
“オタク道と哲学” への1件のコメント
[…] さて、先述した本書の基本的テーマであるラカンとその他の哲学者たちの連鎖、これは本書のキーワードの一つでもある「同一化」を指す。 本書における「同一化」とは、対象との遜色ない同一化ではなく、部分的で、対象のただ一つの特徴においてのみの「同一化」を指す。⑴これは、「オタク道と哲学」で述べた、オタク道と哲学の所作における「関連付け」とも意味を同じくする。 […]